'80年代の前後、ブッチャーやファンクスなどの外人勢も主役の一角を担った全日本プロレスにおいて、脇役の中でトップクラスの人気を誇ったのがディック・スレーターであった。
人呼んで“喧嘩番長”。
「酒場で現役レスラーに喧嘩を売って返り討ちにされるも、その度胸と腕っぷしを見込まれスカウトされた」という逸話は日本向けに仕立てられたものだが、実際のところリング外でも喧嘩が絶えなかったと本人もインタビューで語っていて、その肩書きに偽りはないようだ。
その当時、日本人レスラーをはるかに上回る人気を得ていたファンク一家へ新たに加わった若頭的存在ということで、1974年の初来日時から注目度は高く、ファイトスタイルがテリーと似ていることから、本家がサウスポーであるのに対して“右利きのテリー”とも呼ばれた。
「とにかくパンチとエルボーを乱打するラフスタイルで、他に目立った技といえば河津掛け落としぐらい。それでも一つひとつの動きのキレが抜群で、特にコーナートップから相手の脳天にエルボーを打ち下ろす姿は他に類を見ないくらいに格好良かった」(プロレス誌記者)
日本におけるクライマックスは1980年、全日の春の風物詩チャンピオンカーニバルだろう。リーグ戦ではリングアウトながら馬場を下し、鶴田もフォールして決勝に駒を進めている。結果、鶴田にリベンジを喫して準優勝に終わったが、スレーター株は急上昇することになった。
「この大会は“馬場から鶴田への世代交代”として注目されましたが、もうひとつ“テリーからスレーターへの世代交代”も大きなテーマでした。リーグ戦以外にブッチャーと2度のシングル戦が組まれたのがその証拠です」(同・記者)
両者の戦いはリーグ初戦の「スレーターの反則負け」に始まり、後はいずれも両者リングアウト。ブッチャーに対する“負け役”ではなく、完全に抗争相手と見立てたものだった。
「その中でスレーターは、ブッチャーのコショウ攻撃によって目を負傷して、鶴田との決勝を眼帯姿で戦うことになりましたが、これは“トラブルがあったから負けた”という意味付けからのこと。“鶴田に完敗したわけではない”としたのは、全日のスレーターに対する期待の表れです」(同)
そのように、スレーターを持ち上げようとしたのも当然のことであった。当時のアメリカにおけるスレーターの立ち位置は、「次期NWA王者最右翼」であり、主要タイトル以外のあらゆる王座を総ナメ状態だったのだ。
そんな順調に見えたスレーターのプロレス人生を狂わせたのは、チャンピオンカーニバル準優勝の翌年、1981年に見舞われた交通事故だった。平衡感覚を失うという後遺症が出て、半年ほどの欠場を余儀なくされる。そのためか、復帰した後も動きに精彩を欠くようになってしまった。
それでもアメリカではヒールとして一定の地位を保っていたが、日本では徐々に居場所を無くしていく。全日と新日の引き抜き合戦によりブッチャーが全日を去り、代わってハンセンが外人エースのトップに立ったこともスレーターにとって不運だった。
ファイトスタイルが似ているため“ヒールのスタン・ハンセン”と同じ“ヒールのディック・スレーター”では抗争の構図は描き難く、その存在価値が低下してしまったのだ。
結局、以後は最強タッグリーグなどでの員数合わせのような扱いとなり、'90年を最後に全日のリングを去っていった。
次にスレーターが来日を果たしたのは'94年、インディ団体のIWAジャパン。そこでスレーターは初代IWA王者となる。これがスレーターにとって日本における初めての戴冠であり、初来日から実に20年の月日が過ぎていた。
〈ディック・スレーター〉
1951年、アメリカ出身。'74年、ファンク一家の一員として全日プロに初来日。'94年IWAジャパンに参戦し、初代IWA王者に。'96年、背骨の負傷を理由に引退。その後、殺人未遂や窃盗などで複数回逮捕されている。