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一口にチャンピオンベルトと言ってもプロレスとボクシングでは大きな違いがある。ボクシングの世界王座では一般的にベルトは王者の所有物となるため、王座挑戦時に収めるコミッショナーへの承認料には、新規ベルトの制作代金が含まれている(ただし、負けても代金は還ってこない)。
一方、プロレスの場合は基本的に団体もしくはコミッションの管理物で、それを時々の王者が持ち回りで預かるかたちだ。
これはベルトに対する考え方の違いによる。ボクシングのベルトは王者が勝ち取ったもの、プロレスのベルトは興行に箔付けするためのアイテムなのだ。
ボクシングの王者はあくまでも個人の成果で、プロレスは王者が団体の顔として興行を背負う…つまりは王者の人気や能力がベルトの価値とイコールになる。
「NWA王座にしても初代王者を“第38代”としたように、その成り立ちは実にいい加減なものでした。これを世界最高峰にまで至らしめたのは、団体の力というよりルー・テーズやハーリー・レイスといった歴代の名王者たちの力によるところが大きい」(プロレスライター)
逆に言えば、WWF(現WWE)に1984年からの世界侵攻を許して、NWAが衰退していったのも、WWF=ハルク・ホーガンとNWA=リック・フレアーの差であったと考えられようか。
新日本プロレスがIWGPを独自で立ち上げる以前にメインタイトルとしたNWF王座も、来歴を振り返るとアメリカ北東部のローカルタイトルにすぎなかった。その価値を日本国内で高めたのは、まさしくアントニオ猪木の力によるものである。
NWFが設立されたのは’70年で、新日旗揚げのわずか2年ほど前のこと。団体創設者でもあるジョニー・パワーズはフレッド・ブラッシーを下して初代王者となり、ジョニー・バレンタインやアブドーラ・ザ・ブッチャーらと抗争を繰り広げた。
しかし、’73年に2度目の王座に返り咲いた後の防衛戦では、猪木の挑戦を受けて敗退。以後、NWFのベルトは新日の管理下に置かれ、’81年にIWGP構想とともに封印されている。
「猪木にベルトを奪われたことで、アメリカのNWFが衰退したとする説もまことしやかに流れたが、これは事実ではありません。不動産のサイドビジネスでの負債返済のため、パワーズが新日へNWF王座の権利を譲渡したというのが真相で、この際の売却額は1万ドルといわれています」(同)
70年代中盤は円ドルが固定相場から変動相場へ移行したばかりの頃で、為替レートは1ドル300円前後。物価も現在の3分の1程度だったことから、当時の1万ドルは現在の1000万円程度の価値と推測できる。
★日本での評価を覆す実力の片鱗
こうした経緯もあり、パワーズに対しては“猪木にベルトを譲った選手”というぐらいの認識しかない日本のファンは多いだろう。必殺技のパワーズ・ロック(8の字固め)も、うたい文句は“4の字固めの2倍強力”であったが、見た目には4の字と大差がなかった。
後年、猪木自らも「パワーズは下手くそだった」と評している。しかし、パワーズの記録をひも解くと、アメリカにおいてはルー・テーズやジン・キニスキーのNWA、ブルーノ・サンマルチノのWWWF、バーン・ガニアのAWAといった主要タイトルへの挑戦もあり、独立系レスラーとしてはかなり幅広く活躍していた様子もうかがえる。
’60年のデビュー当時は、金髪のイケメンレスラーで“ブロンドボンバー”とも呼ばれていたようだ。日本ではカーリーヘアのイメージだが、それは壮年期から着用するようになったカツラであり、猪木に卍固めを決められた際には、頭に足がかかってカツラが外れないよう必死に防御していた。すると、その姿がもがき苦しんでいるようにも見え、フィニッシュシーンがより鮮烈になるという副産物もあった。
「今になって猪木戦の映像を見ると、上背もパワーもそれなりにあるし、動きはもっさりしているものの、スピニング・トーホールドからパワーズ・ロックにつなぐ脚攻めも理にかなっている。ただ“死神”のニックネームもあったように、とにかく表情が暗い。それでいて攻められたときのリアクションは大げさでわざとらしく、ニヒルな悪役が一転して苦しむ姿に喜ぶのがアメリカ流なのでしょうが、日本のファンには合わなかった」(同)
なお、独立欲が強くサイドビジネスに熱心というのは、猪木にも通じるところがあり、仲間内からの批判が多いのも同様。似た者同士だったからこそ、新日とNWFのベルト移譲がうまくいったという側面はあったのかもしれない。
ジョニー・パワーズ
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PROFILE●1943年3月20日生まれ、カナダ・オンタリオ州出身。
身長191㎝、体重117㎏。得意技/パワーズ・ロック(8の字固め)
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)