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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(18)

 それである日、勇気を奮って芳松に「そろそろ他の仕事をやらせてもらえないでしょうか」と言ってみた。
 普段は頭ごなしに怒ったりしない芳松から、この時、徳次はいきなり怒鳴られた。
 「何いっ! 炭を搗(ひ)いてちゃ他の仕事が覚えらんねえ? ベラ棒め。門前の小僧習わぬ経を読むってえ言葉を知らねえか。3年、5年、炭の粉を搗いていても、てめえの心がけ一つで他の仕事は覚えられるんだ。他の仕事がわからねえっていうのはお前の心がけがいけねえんだ。習わぬ経を読む心がけで勉強しろ。心がけのよくない野郎だ」と散々な言われようだった。
 “門前の小僧習わぬ経を読む”という諺(ことわざ)は、徳次が初めて会得した教訓である。それからは、職人や兄弟子達の仕事をじっと見て、自分から覚えるように努力した。

 明治39(1905)年に、1年半にわたって続いた日露戦争が終わった。日本は勝利したが、不況は続いていた。
 徳次の奉公も7年目に入った明治41(1908)年のある日、突然、芳松が“鉛筆製造”を始めると言い始めた。既にドイツ製の機械も注文していた。
 日本で鉛筆を工場生産した草分けは明治20(1887)年、東京・内藤新宿に造られた水車を動力とした真崎鉛筆製造場が挙げられる。日清戦争(明治27〜28年)後、好景気が訪れ、日本の小学校は就学率も学校数も倍増したが、長い間、筆記用具は毛筆を主としていた。
 それが順次、鉛筆に切り替えられて、大正の半ば(1920年頃)には一般家庭にも普及していく。
 明治34(1901)年には、全国の郵便局で鉛筆使用を開始していた。
 芳松が鉛筆製造に乗り出そうとした背景には、こうした鉛筆の普及と需要の増加があった。ドイツ製の機械を入れた鉛筆工場も都内の各所にできていた。

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