そんな貴乃花親方にとって、この大阪は、再スタートを切るには最良の場所と言えるかもしれない。そのように心境を読み解くのは、相撲のベテラン記者だ。
「春場所はこれまでも様々な思い出を作り、新たな出発を切った地。そもそも力士としてのスタートを切ったのが、今からちょうど30年前、昭和63年の春場所なのです。一緒に初土俵を踏んだ同期生は95人。後年、その中から3横綱、1大関をはじめ、11人もの関取が生まれ、“花のロクサン組”とも呼ばれました。しかし、やはり一番の目玉は人気大関貴ノ花の息子である若乃花、貴乃花(当時は若花田、貴花田)の“若貴”でした」
貴乃花親方は、まだ何をやっても初々しかった15歳。初めて土俵に上がって相撲を取った日の帰りがけ、近鉄難波駅の階段で不慣れな下駄でつまずいて転げ落ち、左の下駄の前の歯を欠いてしまった。いかにもきまり悪そうに立ち上がった貴花田は、その一本歯となった下駄を足の先にひっかけ、兄の後をおそるおそるついていった姿が今となってはなつかしく思い出される。
それから3年後の平成3年春場所では、東前頭13枚目で初日から平幕では27年ぶりとなる11連勝を飾る。
「こりゃ、18歳で初優勝するぞ」
関係者にそう思わせ、大フィーバーを巻き起こした。残念ながら、終盤で小錦や旭富士ら横綱、大関陣に潰されて賜杯は逸したものの、12勝3敗で敢闘賞、技能賞をダブル受賞。これが、人気だけでなく、実力も兼ね備えていることを日本中に示した最初の場所だった。
理事2期目に入った平成24年には、故北の湖理事長から春場所の総責任者に当たる春場所担当部長を仰せつかった。
「やるからには、15日間すべての満員御礼を目指す。無理を可能にしてみせますよ」
貴乃花親方はこの大役に気持ちを高ぶらせ、大阪に乗り込む新幹線の中から知人にこんなメールを送った。
「15の春を思い出し、新弟子修行のつもりで行ってきます」
当時の春場所は人気が低迷し、館内には閑古鳥が鳴いていた。大阪入りした貴乃花親方はさっそく吉本新喜劇の舞台に立つなど、先頭に立って人気回復に走り回り、15日間オール満員とはならなかったものの、9日間の大入りを達成。リーダーとしてのキャリアを着実に積み重ねた。
このように、貴乃花親方にとって温かく、新しい力をくれた春場所だが、今年に限っては冷ややかだ。理事選でたった2票という最下位落選の傷が治りきっていないうえに、まわりの親方たちからは総スカン状態。2月17日に両国国技館内で開かれた臨時の年寄会では、貴乃花親方が相撲協会に無断でテレビ出演したことに非難が集中した。
「協会のルールを守れないなら解雇すべきじゃないか」
そう声高に叫ぶ親方もいたという。
かつては大相撲界の救世主と思い、慕っていた親方も多かったことを思うと、手のひらを返したような空気だ。これにより貴乃花一門にも歪みが生まれている。
「これまで貴乃花一門と言えば、貴乃花親方を中心にまとまっていた。それが先の理事選で大きく壊れた。そのことは貴乃花親方も週刊誌のインタビューで次のように答えて認めている。『年明け、一門のみなさんと久しぶりに会ったら、(出馬を)降りてくれ、という話になっていたんです。(中略)すでに私抜きで話し合いも行われていたようでした。(中略)正直、戸惑ったのは事実です』。つまり、完全に分裂し、仲間外れにされていたわけだ。2年後には『再び貴乃花親方を理事候補に推す』ということになっているようだが、今の状態ではもう無理でしょう。貴乃花親方は一人ぼっち、孤立無援です」(貴乃花一門関係者)
ただ、救いは9人もの弟子たちがいることだ。今場所は貴公俊(たかよしとし)が十両に昇進し、関取の数が4人になった。先代から部屋を継承して丸14年。「10年で関取を1人作れば上出来」と言われる世界で、14年で4人、それも弟子の1人、貴景勝は先場所、小結にまで昇進したことを思えば超優秀。貴乃花親方の弟子を育てる手腕は、なかなかのものと言える。
その基本は、“土俵の鬼”と言われた伯父の初代横綱若乃花の代から受け継がれてきた、妥協を許さない厳しい稽古にある。貴ノ岩が日馬富士に暴行を受けた事件で、貴乃花部屋の力士には「よその部屋の力士と、飲食をともにしてはいけない」という厳しい掟があることが明らかになったが、おそらくこれは今後も徹底されるはずだ。
貴乃花部屋の春場所の宿舎は、京都の市街地から離れた寺。そこで貴乃花親方は弟子たちと籠り、黙々と稽古に励むに違いない。
「今度の注目力士の1人が暴行事件の被害者、貴ノ岩です。すでに先場所後から体を動かし始め、失った相撲勘を取り戻すのに必死ですが、どこまで回復しているか。三役から落ちた貴景勝、新十両の貴公俊らも黙っていないはずで、貴乃花部屋の力士たちから目が離せません」(担当記者)
貴乃花親方の怨念が“土俵”で爆発する。