国家予算の歳出の中に、国が都道府県にどれだけの補助金を出したかを示す「補助事業費」という項目がある。これは、国が都道府県にどれだけの公共投資配分を認めたかの目安となる。田中が政調会長になったばかりの昭和36年度予算での新潟県のそれは、46都道府県(注:まだ「沖縄県」はなかった)中の真ん中あたりだったが、政調会長を辞める1年後、すなわち37年度予算では、何と東京、北海道、大阪、愛知に次いで5位に急上昇したのであった。東京は首都、北海道は当時14支庁が集まって北海道開発庁まで置いていたことで、この二つはもともと“別格”、大阪、愛知も大都市で、その次に一気に日本海側の雪国である新潟がくるというべらぼうであった。
また、その翌38年度にはついに新潟は愛知を蹴落として4位に、それから後の45年度には大阪をも引きずり下ろして東京、北海道に次ぐ3位に躍進、これは田中が首相の座に就いても変わるところはなかったのである。
やがてその田中が首相の座を下りた後の昭和56年秋の臨時国会の衆院行政改革特別委員会で、こんなコトがあった。当時、まだ「社会民主連合(社民連)」の1年生議員だった菅直人(後に首相)が質問に立った。菅はなお「キングメーカー」「闇将軍」として影響力を保持する田中の地元新潟が、こうした膨大な「補助事業費」を獲得しているのがどうにもガマンならなかったようであった。菅は言った。「田中角栄氏の出身地である新潟県は、他県と比べて補助金が飛び抜けて多い。これは、どう見てもおかしいのではないか」と。
ところが、この委員会には田中派議員が多数出席しており、猛烈なヤジを浴びたのである。「新潟は広いんだ。もっと勉強して来いッ」「雪をどうするのか! それが政治だッ」と。菅はクチビルを噛んで、質問席を後にしたのであった。
こうした一方で、政調会長だった田中は、やがて「絶対の腹心」としてラツ腕を振るうことになる“ある男”との紐帯感、信頼感を熟成させていた。“ある男”とは、後に「カミソリ」の異名のもと、その清廉な政治姿勢と怜悧な判断力で多くの議員から畏敬を集めることになる元警察庁長官の後藤田正晴(後に官房長官)である。
田中と後藤田の出会いは、実は田中が当選3回目の昭和27年の年末にさかのぼる。田中は後藤田より4歳年下、まだ30代半ばであった。時に、田中は衆院予算委員会のメンバー、後藤田はまだ警察庁という名のもとに統合される前の国警本部の警備部警ら課長であった。
このとき後藤田は第2機動隊構想の腹案を固めており、人件費の増大が予想されることから、28年度の警察予算の増額を田中に陳情したのだった。後藤田は旧内務省の先輩で代議士だった町村金五(故・町村信孝元外相の父)から、すでに「戦後タイプのメリハリの利いた将来性ある田中角栄という代議士がいる」との評を聞かされており、それならと予算陳情で田中を頼ってみたということだったのである。
これを機にその後、時折、田中と後藤田は陳情などを通じて会う機会が増えていった。後年、筆者は後藤田にインタビュー、田中との出会いなどを質したことがあった。後藤田は言った。
「出会った当時、田中さんは自民党内での序列はまだ低かったが、先輩の政治家や官僚には気に入られていた。気さく、明るい、飲み込みが早い。一を言えば、すぐ十を知る人だった。陳情でも納得すれば、すぐ『分かった』と言う。田中さんは『分かった』と言ったことは100%実行してくれたが、他の代議士は『分かった』とは言っても大抵はそのままで何もやらないのが多かった。このあたりが他の代議士とは全く違っていた。その上、後で『あの件はキミの言う通りになったよ』と、必ず電話をくれる。物事を極めて事務的に処理し、その上で押し付けがましいことは微塵もなかったな。この頃、すでに多くの官僚は田中さんを信用していた。その後も田中さんとの関係は長かったが、そうした姿勢は、終生、何一つ変わらなかった。僕の長い官僚、政治家生活の中で、実行力、決断力、先見性、田中さんを超える人は一人としていなかった」
そうした中で、昭和37年7月、時の池田勇人首相は第2次内閣の改造を断行、政調会長の田中を大蔵大臣に大抜擢した。政調会長として党から国家予算をにらむのではなく、今度は全権を握ることになったのである。大蔵大臣から、その後、自民党幹事長をやり、首相の座に就くまでの約10年間が、田中の政治家としての最も華やかで充実した時間となるのである。
(以下次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。