1991年(平成3年)には、不動産業でもうけた4億5千万円を資金に、日本で初めて宝探し専門の会社『未来開発』を立ち上げた吉田錦吾氏が、カネにものを言わせて地下40メートルまで掘っている。数千万掛けても、危なくてそこまでしか進めなかったのだ。
そのときの裏話だが、吉田氏はボーリング調査の際、ドリルの先に金粉が付着してきたので、がぜん本気になった。だが、筆者の知人は事前に、ある人物が穴の底に金雲母をバラまくのを見ている。
ただ、この手の話は“事件”にはなりにくい。詐欺であることの証明が難しいし、何よりも出資する本人が話を信じ込んでいれば、らちが明かないからだ。
話の地、山梨県南巨摩郡増穂町(現在の富士川町)舂米で埋蔵金の発掘が始まったのは、戦前の昭和11年のこと。東京都内に住んでいたK氏の先代が『甲陽協賛会』という組織を結成し、『国秘宝庫の栞』というタイプ印刷の冊子を作った。これをツールとして資金集めを始めたという。
本気で発掘を実行するつもりだったかどうかはわからないが、実はこの『国秘宝庫の栞』を、筆者はだいぶ前に手に入れている。それに書かれていることは全くのホラ話と言っていいもので、読んでいる方が恥ずかしくなるほどだ。
同じ徳川埋蔵金でも、群馬県の赤城山周辺に伝わる話とは経緯が随分違う。舂米説は、御用金は二つに分け、一つは上州へ運び、甲州へ運ぶ分は56艘の船で富士川をさかのぼり、鰍沢で陸揚げし、450人の船乗りはすべて毒殺、鰍沢から舂米まで荷物を運んだ馬子たちも馬もろとも殺した。そして、江戸で集めた屈強な男たちを使って、2町(約220メートル)四方から穴をすり鉢状に300尺(約90メートル)掘り下げ、その底に75トンの金塊と慶長大判など総額1千万両を収めて埋め戻し、その作業中、深さ9メートルになったとき、作業員を底に集め、縄梯子を引き上げて大石を落とし、這い上がろうとする者は斬り殺して埋めた。最後に、工事を指揮した旗本たちは、毒酒をあおって人柱となり、埋蔵の秘密を守ったとある。計画段階から終了まで、各地で犠牲になった者の数は4千人に上ったという。
埋蔵金の工事は秘密裏にやらなければ意味がない。56艘もの川船、大規模な工事、4千人の犠牲者、どれをとっても秘密が守れそうにない要素ばかり。いくら情報の伝達が遅い昔のこととはいえ、これだけのことをやったら大騒ぎになるのは目に見えている。秘密を守るためには「少人数で短時間に終える」これが鉄則ではないだろうか。
上州埋蔵説について調べると、各地にさまざまな目撃談が残っている。中にはあまりにも目立ちすぎて、陽動作戦ではないかと思えるものもあるが、大人数が長期にわたって動いた形跡は少ない。ところが、富士川の河口から釜無川と笛吹川が出合う鰍沢口にかけては、そういった目撃談は一切ない。
また、これも肝心なことだが、小栗忠順の子孫は、彼に妾はいなかったと断言するし、研究家たちもそれを支持している。甲州舂米という土地も忠順とは縁もゆかりもない。何ひとつ肯定的な要素がない。100分の1でも可能性があれば、発掘費用のことはさておいてオジサンを応援するのだが、この件については「おやめなさい」と進言するしかない。『鑑定団』の中でオジサンは時価総額160兆円と口走っていたが、14年前からさらに話は膨れ上がっているようだ。
もし、徳川の埋蔵金そのものに興味があるのなら、群馬県の北部にまだ可能性が残る場所が何カ所か残っているので、教えてあげたいとさえ思う。もちろん、どこをやるにしても費用はさほど掛からない。機械を使わざるを得ない場所もあるが、それでも100万円以内でできるはずだ。
そういえば、『鑑定団』の司会者の一人である石坂浩二氏が、不思議そうに「なぜ山梨なんですか?」と聞いていた。それもそのはず、石坂氏は今から20年以上前、赤城山麓を掘り返したTBSの特番『徳川埋蔵金大発掘』に深く関わっていた人だから、疑問に思ったのだろう。今でも赤城山麓にあると、信じているのだろうか。
いやいや、やっぱりあるとしたらもっと北の方でしょう。分散埋蔵したもののうち、まだ少しは残っているはず。大本命は片品村で、今年こそ雪が解けたら決着をつけに行こうと思っている。(完)
トレジャーハンター・八重野充弘
(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。