ところが富士山が知れ渡ったのは、鎌倉幕府成立以降のことで、身近な存在として富士山を意識したのは江戸時代になってからのことだという。要するに都が京都や奈良の時代に、未開の地だった東国に人々が出向くことはほとんどなく、だから知られることもなかった。さらに平安時代においては何度か大爆発を起こしており、常に煙を吐く恐ろしい山だったため、信仰の対象にならなかったのである。
日本書紀や古事記に、最初に東国の事情が登場するのは、日本武尊が東国の平定に向かうときだ。「駿河に至る」と書かれた文章の中に出てくるのは、野に火を放たれ、殺されかけた際、迎え火を燃やして難を逃れたという話で、これが「焼津」の語源になったとの逸話もあるくらいだが、富士山については一言も触れられていない。
「富士」の由来については、竹取物語にこう出ている。月に帰るかぐや姫が「不死の薬」を帝に置いていくのだが、帝は、かぐや姫のいない世界では、不死であっても意味がないと、富士山の頂上でこの薬を燃やすように命じた。このとき、士をたくさん連れて山に登ったことから、士が富んだ山という意味で、富士山と命名されたという。
万葉集には、火を噴く山の様子が歌われているものの「います神かも」と述べているだけで、神が住む山という認識しかなかった。
続日本紀には、781年に「富士山灰ふり木葉枯れる」とあるから、この年には大きな火山活動があったと推測される。日本後紀の中には、800年に「黒煙、夜火光天照、声如雷、降灰足柄道を埋む」と記録されている。このころは、頻繁に爆発する活火山だったようだ。
富士山は、古代は荒れる東国、未開の国の象徴的な存在、そして活火山として恐怖の山でしかなかった。それが、かぐや姫の伝説により、仙郷の蓬莱山と結び付き、そのイメージを仙人の住む山へと変貌していった。
そして貞観の噴火と言われる864年から2年間にわたる大噴火により、富士山の北西山麓は溶岩で埋めつくされたとされる。
忘れてはならないのは、その恐怖が今の世にいつよみがえっても不思議ではないことだ。