稀勢の里にとって、休場を表明した5日目朝までの5日間は、悶々として夜も眠れない、地獄のような日々だったに違いない。横綱史上87年ぶり、15日制下では初めての初日から4連敗を喫する“計算違い”はどこに潜んでいたのか。
「少なくとも、原因は2つありました。1つは、白鵬、鶴竜が初日から休場し、図らずも1人横綱になってしまったことです。おかげで場所を引き締める責任感やプレッシャーを1人で背負うことになりましたからね。もう1つは、去年の春場所で痛めた左大胸筋の影響がいまだに消えていなかったことです。おそらく本人は、もう大丈夫と思っていたのでしょうが、やはりかつての力強さは戻っていませんでしたね」
こう分析するのは、審判委員の経験がある親方だ。九州場所の稀勢の里は、本格的に戦列復帰して2場所目。自分のことで精いっぱいで、とても優勝争いを演出するような余裕はない。
そんなところに、白鵬、鶴竜の2横綱が場所前、相次いで休場を表明し、いきなり1人横綱の大役がまわってきたのだ。
「気の毒と言えば気の毒。白鵬、鶴竜らのモンゴル人横綱たちは『大相撲界に貢献する』より、『少しでも現役生活を長引かせ稼げるだけ稼ごう』という姿勢がミエミエですから。鶴竜などは直前まで時津風部屋に出稽古し、正代や豊山らを相手に元気に汗をかいていたので、師匠の井筒親方が休場を発表したとき、協会首脳も驚いていました。稀勢の里は、そんな自分勝手なモンゴル人横綱たちのしわ寄せをいっぺんに食った格好で、もしどちらか1人でも出場してくれていたら、展開は全然違ったと思います」(担当記者)
もっとも、稀勢の里はこの異常事態にもたじろがなかった。幸いなことに、場所前の仕上がりはまずまず。九重部屋や阿武松部屋、境川部屋などに出稽古し、北勝富士や妙義龍らに圧勝している。むしろ横綱ワーストの8場所連続休場などの汚名を返上するチャンスと受け取り、初日前日には、
「やることは変わらない。調子は悪くないので、あとはしっかり結果を残すだけです」
と優勝宣言までした。
しかし、結果は最悪だった。平幕力士が横綱を倒せば「金星」となり、1場所4万円も褒賞金がアップする。まだ完全復調に至らない稀勢の里は、まるで飢えた狼の群れに取り囲まれた小鹿のように、連日、寄ってたかって噛みつかれ、餌食にされたのだ。
最後の出場となった4日目にはさすがに気持ちも滅入り、花道を入場してくるときから目を伏せたまま。こんな状態では「勝て」という方が無理だった。
そして迎えた5日目の朝。
「ファンの皆様には申し訳ないが、このままでは終われない。もう一度、チャンスをください」
と言って、ついに休場届を提出し、出直しを誓った。
実に横綱在位11場所で9度目の休場。次はもう言い訳ができない、という退路を断った最後のお願いだった。
歯ぎしりするようなつらい選択…。
稀勢の里にとって不幸だったのは、こういう苦境のとき、適切なアドバイスをしてくれる人間が周囲に見当たらないことだ。本来ならその役は師匠が担うべきだが、田子ノ浦親方(元幕内隆の鶴)は平成23年11月に先代師匠(元横綱隆の里)が急死し、急遽、祭り上げられた元兄弟弟子で最高位が前頭8枚目。あまりにも格は違い過ぎ、とてもその任には堪えられない。
そのため、稀勢の里は入門する前から尊敬していた元貴乃花親方を頼り、これまでも部屋の枠を超えて様々な場面で相談し、アドバイスを受けている。10勝してなんとかピンチを切り抜けた先場所のことだ。
「(今場所は)表情がよかったし、頼もしかった」
まだ審判委員として協会に在籍していた元貴乃花親方は、こう言って真っ先に祝福している。
おそらく今回も、以前のように直接会話することは叶わなくとも、電話などで相談し、なんらかのアドバイスを受けているはず。もしかすると「恥を忍んで次に再起を目指せ」と、かつて自分も7場所連続全休の試練を乗り越えて再起を図った元貴乃花親方の前例から決意したのかもしれない。
さらに、稀勢の里はここで辞めるわけにはいかないフトコロ事情も抱えている。
「稀勢の里は引退したら独立するつもりで、すでに荒磯という株も入手している。ただ、部屋を興すには数億のお金が必要。ところが、稀勢の里は人付き合いが下手で、なかなか太っ腹なタニマチを捕まえることができていない。資金は自分で稼ぐしかないんだけど“さあ、これから”というときに大けがを負い、今に至っている。いろんな意味で、もうひと花咲かせなくてはいけない」(部屋関係者)
稀勢の里に笑顔が戻る日はやってくるか。