1854年12月23日、静岡県から愛知県にかけての遠州灘沖を震源とした、安政東海地震(M8.4)が起きた。静岡県沿岸に約6メートルの高さで襲った津波は、房総半島から四国地方の沿岸にも到達。その影響は内陸部にも広がり、山梨県、長野県も震度5〜7の激しい揺れに見舞われている。
「さらにその翌日、先の震源地から西方の紀伊半島、四国などの南海道沖で、M8.4の安政南海地震が発生している。立て続けに起きた2つの巨大地震と大津波による死者は、約2000から3000人。当時は'53年に黒船が来航し、幕府が相次ぐ開港を迫られるなど国内が混乱した時期だった。被害を受けたのは日本人だけでなく、開港交渉のため下田に停泊していたロシアのプチャーチン提督のディアナ号も、津波を受け大破しています」(サイエンスライター)
このディアナ号は翌年、修理のために静岡県沼津市へ向け曳航される途中で嵐に遭い、富士市沖で沈没するのだが、沼津藩の祐筆・山崎継述の『嘉永七甲寅歳地震之記』には、沈没後に田子の浦に上陸する乗組員の様子のほか、以下のように地震の被害の様子が記されている。
《沼津城から一里北東にある小林村で12軒の家が土地の陥没により地面に飲み込まれ、死者9人のうち7人が掘り出されたが2人は発見できなかった。陥没の範囲は、幅50間(約100メートル)、長さ2町(約217メートル)、深さ4〜5丈(約12〜15メートル)であった》
この時期に起きた関東地方を襲った地震は、それだけではない。安政東海・南海地震の前には、'47年に長野県を震源とした善光寺地震(M7.4)、'53年に小田原地震(M6.5)、地震後の翌年には遠州灘を震源とする安政東海地震の最大余震が起きている。
地震学が専門の武蔵野学院大特任教授・島村英紀氏はこう言う。
「江戸時代は、現代と比べものにならないくらい地震が多かった。東京は関東地震(1923年)以来、震度5の強い揺れを3回しか経験していませんが、それが普通と思ってはいけません。しかも、東京は関東地震のような海溝型と、直下型の2つのタイプの地震が起きる可能性がある。文明が進んだ分だけ被害は大きくなるので、今、東京を大きな地震が襲ったら大変なことになりますよ」
地震はまだ続く。前述の遠州灘での余震が起きた4日後、関東地方南部を震源とした直下型の安政江戸地震(M7級)が発生した。
当時、江戸で剣術の師範をしていた沼田藩士の藤川整斎は、『安政雑記』でこう記している。
《近年畿内より東海道・相模辺迄地震津波の災危ありて、人民多く死亡せるよし成れども大江戸近くには其憂患なく、諸人快楽安逸に恒の産を守りて、是はた余処の事とのミ聞過し居なりしに、今年安政二年十月二日夜亥時大地震ありて――》
地方が大地震で壊滅の被害を受けたが、江戸は自分には関係ないと多くの人が快楽を貪る日々。その報いは遠からずやってきた。まるで現代の東京と同じ状況を思わせる文章だ。
この地震は江戸開府以来の大地震で、震源地は墨田区深川近辺。当時の記録によると、日暮れ時に寺がつく入相の鐘が鳴り、夕食も済んで、これから読書でもしようという夜10時頃に大きな揺れが起き、たちまち家屋が倒壊した。同時に約32カ所から火の手が上がり、家の下敷きとなった人は見殺しとなり、助かった人は右往左往するばかりだったという。
さらに火に追われ、川へ飛び込み死んだ者も数知れず。吉原では地下室に逃げ込んだ遊女たちが蒸し焼きになってしまったという、なんとも生々しい記録まで残っている。
「この地震の揺れで、最も強かったのが墨田区本所、江東区深川で、次に中央区の湊・日本橋・築地、台東区浅草、さらに港区芝・田町・高輪、品川区などが続く。台東区の吉原では焼死・圧死1560人、負傷2300人余りだったという。江戸での民家の倒壊は1万4000戸以上、死者は1万人との説もあり、一方で『安政雑記』では、供養数だけで各宗派合計21万9900余人となっている。これには多少誇張しすぎとの説もありますが、死者・行方不明者の実数は把握できていないほどです」(前出・サイエンスライター)
この江戸における直下型地震から162年。現代の東京においても、直下型地震の襲来が刻々と迫っているとされる。
「専門家の間でいま、最も注目されているのが、東京のド真ん中を走る“推定断層”の存在です。その名の通り、地形的な特徴などから今後、地震を引き起こす活断層の可能性があると推定されつつも調査資料が少なく、詳細な位置や状態がはっきりしていない断層。これらが動けば、首都機能がマヒするほどのM8クラスの直下型地震が起きるとされているのです」(同)
日本活断層学会の豊蔵勇・元副会長は散歩中に見つけた違和感のある地盤、地震データ、地盤データなどから、東京都心に推定断層を見つけている。防衛省近くを通る市ヶ谷推定断層、飯田橋推定断層、迎賓館近くの九段推定断層ほか、束のように南北を走る銀座推定断層、築地推定断層、勝鬨橋推定断層、月島推定断層などだ。
「中でも全長7キロに及ぶという飯田橋推定断層には、飯田橋駅でJR線、地下鉄が走る。巨大地震により外濠が破壊されれば、一帯は水浸しとなり、多くの死者が出ると見られているのです」(同)
果たして、これらの推定断層が動くことはあるのか。そこで気掛かりなのが、6月25日に長野県南部で発生したM5.7、震度5強の地震だ。
サイエンスライターが続ける。
「この地震は火山性との見方に加え、中央構造線に絡んだものという見方もあります。6月20日、大分県佐伯市で震度5強を記録した豊後水道を震源とするM5の地震でも分かるように、昨年の熊本地震以降、中央構造線に沿った活断層が活発化している。この中央構造線は、東京近くにまで達している恐れがあり、地下を走る推定断層と連動する可能性も指摘されているのです」
中央構造線は、九州から関東にかけて日本列島を貫く大断層だ。鹿児島県から熊本県、大分県を通り、四国北部を経て紀伊半島を横断。伊勢湾を横切って天竜川沿いを北上し、長野県諏訪湖付近で、本州中央部を縦断する地溝帯「フォッサマグナ」にぶつかる。この中央構造線のズレにより、京都で発生した慶長伏見地震(1596年)など、度々大きな揺れが引き起こされた。
「6月25日の長野の地震は、フォッサマグナの西の縁を垂直に走る日本有数の活断層『糸魚川―静岡構造線』の歪みによる影響も考えられる。火山性とも考えられるが、中央構造線の周辺では地震の発生が集中しており、その延長線上にある首都圏への影響も心配されるのです」(前出・島村氏)
首都圏を襲う巨大地震としては他にも、茨城県南部が「地震の巣」とも呼ばれ、近々、ここを震源とした直下型が起こるとも言われている。
「茨城県南部の地下では、陸側のプレートの下に太平洋プレートとフィリピン海プレートの2つのプレートが沈み込んでいる。そのためひずみが溜まりやすく、プレートの相互作用で地震が起きやすいと言われているのです」(前出・サイエンスライター)
政府の中央防災会議は、同地域を震源としたM7.3の地震を想定しており、2020年までにその直下型が起きる確率を100%とする専門家もいるほどだ。
文部科学省の公式見解では、南関東でM7クラスの地震が発生する確率は「30年以内に70%」。その具体的な例は、東京湾北部地震のほか全部で18ある。
「M7クラスの地震は、東京や神奈川などの南関東で平均28.3年に1度起きている。直近では、1987年の千葉県東方沖地震がそれに当たります。今年はすでに30年が経っているため、南関東の地震はいつ起きても不思議ではないのです」(同)
中央構造線は、群馬県下仁田、埼玉県寄居、そして茨城県鹿嶋へ抜けているとの指摘もある。つまり、活性化している中央構造線絡みの地震が、茨城県方面で突如、発生する可能性もあるということだ。
《相模国、武蔵国ではすべての建物が壊れた。百姓の圧死多数。相模国分寺では本尊など仏像が破損し、地震直後の火災で焼失してしまった》
平安時代に編纂された歴史書の『三代実録』にこう記されているのは、878年に南関東を襲った相模・武蔵地震(推定M7.4)の様子だ。
「震源は神奈川県を走る伊勢原断層と見られています。直下型とはいえ、安政江戸地震も震源は墨田区近辺。首都機能が集中する東京の真下を震源とした地震が起きた場合はどうなるか。想定外の事態が方々で起こることは間違いないでしょう」(同)
その場合、倒壊したビルの下敷きになる人もいるだろうが、ビルが首都高速にもたれかかり、走行中の車を巻き込むことも考えられる。木造家屋の多い下町方面は火の海となり、火災旋風の発生も十分に予想される。
「内閣府が公表した首都直下型の被害予測は死者2万3000人となっているが、それどころでは済まないというのが、多くの専門家の見立てです。直下型では緊急地震速報は役に立たず、突然にして爆発的な揺れが襲う。電車も震度7の場合は90%以上が脱線するとされる。大混雑の地下鉄施設は40分で予備電源が停止し、一気に二酸化炭素濃度が上がる。複合的な被害で10万人単位の犠牲者が出るとの見方もあるのです」(社会部記者)
果たして、その地震が起きた際、後世にどのような記録として残されるのだろうか。