そもそも大山倍達が「大山」姓を名乗るようになったのは、大山茂の実父の下で書生をしていたからであり、2人は血のつながりこそなくとも深い縁で結ばれていた。極真の大会での氷柱割りや真剣白刃取りといった演舞、あるいは審判としての姿を知る人もいるだろう。
またウィリー・ウイリアムスvsアントニオ猪木の異種格闘技戦で、愛弟子ウィリーのセコンドに付く姿を記憶する人も多いだろう。ドクターストップによる引き分けの裁定が下った後、大山が鬼の形相でレフェリーに詰め寄るシーンは、この試合がいかに異様な状況下で行われたかを如実に表していた。
「大山茂氏が怒ったのは、リング内では5秒以内と決められていたはずの寝技が、場外ではそれを超えても反則にならないからでした。場外で極真勢と新日勢が揉み合った際に猪木が脇腹を負傷したのも、拳を握る姿がカメラに映ったことから“大山がやった”とする噂がありましたけど、あれは後に、やはり極真の添野義二が『猪木が落っこちてきたときに踏んづけた』と語っています」(スポーツ紙記者)
猪木戦に向けてのウィリーが特訓した際には、当時40歳をすぎていた大山自らがスパーリング相手を買って出て、猪木を想定したタックルや寝技、グラウンド状態からのアリキックを披露し、その格闘センスの高さを示したこともあった。
「早くから極真のニューヨーク支部に渡って、体格に勝るアメリカ人たちを指導してきた。自分より優れた者の言うことしか聞かない彼らを手なずけたのだから、相当な実力者であったことに違いありません」(格闘技ライター)
日本人の極真門下生の多くも、世界大会の前などはアメリカの大山の下を訪れて修行するのが恒例となり、やはり指導者としての能力の高さがうかがえた。
そんな大山にとっての最高傑作といえるのが、やはり前述のウィリーということになる。2メートル近い長身でいて均整の取れた体躯。手足も長く、接近してのドツキ合いが主流だった当時の極真ルールにおいて、体格に劣る日本人選手は近寄ることすら難しいような状況だった。
世界大会の開催当初から「日本人以外の選手が優勝するようなことがあれば腹を斬る」と公言していた極真総帥・大山倍達にしてみれば、孫弟子ウィリーの成長はうれしい反面、悩みの種でもあった。
「日本発の武道として世界進出する段階で、外国人が優勝するとその価値が減じるというのが大山倍達の考えだったようです」(同)
そして、猪木との異種格闘技戦を間近に控えた1980年の『第2回世界空手道選手権大会』で、事件は起こった。
圧倒的実力で一本勝ちを重ねていくウィリーと、準決勝で対峙したのは三瓶啓二。のちに全日本3連覇を果たし、中村誠とともに“三誠時代”と称された猛者で、前年の全日本選手権でも準優勝の実績を残していた。
身長でもウィリーが30センチは上回り、周囲が“三瓶に勝機はない”と思ったとしても無理はない。
だが、試合開始となると突如、ウィリーが暴走を始める。
両手で襟をつかんでの膝蹴り連打から、投げ飛ばし、さらに倒れた三瓶の上から殴りかかっていく。いずれも極真ルール下では明らかな反則行為である。
試合再開後には腰に手を当てたままやる気のない態度を見せつつ、またもや襟づかみに投げ飛ばし。結局、そのまま反則負けを宣せられたのであった。
「これには大人の事情が強くかかわっていたといわれます。ウィリーに負けさせるにも、猪木戦を前に“ケガで棄権”というわけにもいかない。そこで選んだのが暴走反則負けだったというわけです」(同)
熊や猪木とも闘い、さらには反則負けの汚名にも甘んじた、そんなウィリーの献身が、最強をうたう極真発展の礎となったともいえるだろう。