伊賀上野観光協会や伊賀流忍者博物館の協力を得て、歴史の足取りを追ってみた。
江戸後期の書物、「高山公実録」によると1614年(慶長19年)に大阪冬の陣で「忍びの衆」が召集された。そこで「忍びの衆」と名称が登場している。
当時、「忍」という名称は「盗人」のイメージが強かった。1647年(正保4年)に伊賀上野藩が忍者イメージアップのために「伊賀者」という呼称を使うようにしたという。
江戸時代に入り、裁判制度が確立され刑罰なども細分化される中、武士の役職名に犯罪者を指す「忍」と付けることは、当時、もしかすると批判があったのかも知れない。
争いが日常茶飯事であった戦国時代において、「忍」の術は重宝されるものであったに違いないが、平和になった江戸時代、一般の民衆からすると「忍」の術は単なる泥棒の技術というように解釈されるようになっていたのではないだろうか。
1650年(慶安3年)には公的な職業名として、「伊賀者」という名称が出て来るが、1709年(宝永6年)になっても「忍町」の記述はなかった。
藤堂藩関連の資料「宗国史」によると1751年(宝暦1年)に「忍町」の名称が正式に使われることになった。
伊賀流忍者博物館の幸田知春氏によると、1636(寛永13)年「伊賀付差出帳」に「忍びの衆」と記述があったので、それ以降、周辺住民たちによって徐々に「忍町」と呼ばれていった可能性があることを教えてくれた。また、伊賀者(忍者)が忍町に住み始めたのは、最も古い城下町図が描かれた寛永年間(1624〜1643)以前と推測されるとのことだ。
忍者の身分が下級武士であるがゆえに忍町の歴史に関する資料が少ない。そのため忍町の町名使用については明確になっていない部分があるという。
※参考文献:
久保文武「伊賀国無足人の研究」
藤堂藩関連の史料、「高山公実録」「伊賀付差出帳」「宗国史」
※取材協力:
(社)伊賀上野観光協会 http://www.igaueno.net/
伊賀流忍者博物館 http://www.iganinja.jp/
※記事、文科系忍者記者ドラゴン・ジョー(山口敏太郎事務所)
参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou