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戦後70年特別読物 天皇・皇后両陛下パラオ共和国ご訪問 生還日本兵の証言(山口永元少佐、永井敬司元軍曹)「ペリリュー島 地獄の持久戦」(2)

 3日間にわたる容赦ない空爆と艦砲射撃で樹木は根こそぎ吹っ飛び、地面は掘り返され、岩礁は崩壊し、ほとんど丸裸と化した。
 1944年9月15日早朝6時、ついに米軍はペリリュー島上陸を開始する。
 「私は当時“モミジ”を守備していました。夜明けと同時に海を見たら海面が真っ黒なほど無数の敵艦が接近し、さらに水陸両用戦車などがこっちに向かって押し寄せて来るのが見えました。来るべき時がついに来たか、そう思いました」
 山口氏の言うモミジは、島の西北に位置している。日本軍は守備陣地にアヤメ、レンゲ、イワマツ、クロマツなどの名を付け、特にイワマツ、クロマツ地区の守備を強化していた。実際、米軍はここから上陸する。

 兵員を乗せた船艇が上陸ポイントを目指し、やって来る。この時であった。日本軍が仕掛けた機雷に触れ、船艇数隻が水柱を上げて撃沈。早くも米軍は犠牲者を出した。さらに上陸部隊は驚くべき事態に遭遇する。連日の猛攻ですっかり壊滅したと思っていた日本軍の猛反撃を受けたからだ。
 イワマツに布陣していた富田保二少佐は、敵が間近に接近するまで反撃を止めた。イワマツはまさに敵の上陸ポイント。真っ正面で対峙する。米軍の上陸と同時に、満を持して待っていた守備隊は一斉に機関銃を猛射。砲兵部隊も野砲あるいは速射砲の砲火を浴びせまくった。
 日本軍の不意打ちに合いながらも米軍の後続部隊は続々と上陸する。そのため米軍は前進も退却もできずに大混乱。米兵の「伏せろ!」「隠れろ!」「前進しろ!」といった絶叫が海岸にこだました。

 日米両軍の壮絶な白兵戦−−。米軍は死体を踏み越えながら、雪崩を打って攻めてくる。
 「だから私も軍刀を投げ捨て、味方の小銃を拾って撃ちまくりました。まさに接近戦。お互い顔がみえる距離でのブッぱなし合い。殺すか殺されるか。情けも容赦もありません」(永井氏)
 上陸時点で米軍は1400人もの戦死者を出す。海岸はおびただしい流血でオレンジ色に変色した。そのため、人々は後にそこをオレンジビーチと呼んだ。

 米軍の第一波攻撃は完全に失敗。しかし、物量に勝る米軍は各地の守備陣地を次々に撃破する。これを阻止するため富田少佐は決死切込隊で血路を開くが、敵弾を全身に浴びて壮絶な最期を遂げる。そこで永井氏らは夜襲に転じた。
 「けれど、これがなかなかうまくいかない。彼らは夜になるとテントで休むが、集音マイクを仕掛けているため、わずかな音でも感知してすぐさま撃ち返してくるんです」

 守備隊の崩壊で山口氏らは連隊本部を目指して退却。永井氏は途中右足に被弾してしまい、死んだ米兵のポケットから奪った化膿止めらしき薬で治すのだった。
 米軍に退路を阻まれ、しかも連絡手段も失った山口氏らは戦況がわからず次第に孤立してゆく。一方、中川守備隊長は敵を島内に誘い、持久戦に持ち込んだ。
 米軍は長期戦に伴って犠牲者が続出。戦闘は3、4日どころではなく、上陸から1カ月後、リュパータス少将は師団長解任の上、本国送還となり、連合軍の勝利も知らずに死去したと伝えられている。

 中川守備隊長もいよいよ万策尽きた。兵力、武器弾薬、食料は底を突き、ついに決戦の時を覚悟する。師団本部に向け、通信兵に命じて決別の電報「サクラサクラサクラ」を打電させ、さらに連隊旗を奉焼し、1944年11月24日午後4時、従容として自決する。

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