21世紀初頭のプロレス界は“冬の時代”といわれるが、これを支えた立役者の1人が鈴木みのるであった。高山善廣とともに新日本、全日本、ノアとメジャー各団体の垣根を乗り越え、インディーにも積極的に参戦。まさにプロレス界を渡り歩き、各団体を盛り上げた。
「アメリカではWWEの寡占化が進み、選手のギャラが高騰。フリーの大物外国人レスラーを招聘しても、次回WWE出場までの“つなぎ”と言わんばかりのアルバイト感覚だから、高いファイトマネーに見合うだけの集客にはつながらない。それに比べれば鈴木や高山はずっとお得感がありました」(興行関係者)
各団体に“外敵”として参戦すれば、それだけで試合内容も会場の雰囲気も格段に盛り上がるのだから、マッチメーカーにしてみれば「他団体に出たからウチには出さない」などと言ってはいられない。
「UWF系の団体に所属して総合格闘技の経験もある2人だからこそ、いわゆる“純プロレス”についてその世界に長くいる人間たちよりも、ずっと客観的に見ることができたのでしょう。そこが彼らの強みとなりました」(同)
業界のしがらみにとらわれず、こうすれば面白いと思うことを迷いなく試合やマイクパフォーマンスで表現したことで、鈴木は停滞していたプロレス界に大きな刺激を与えた。
SWSにおけるアポロ菅原との不穏試合やUWFからパンクラスにかけてのモーリス・スミス戦など、かつての鈴木が発したストイックなイメージが強い昭和ファンからすると、プロレス界に順応して自ら盛り上げ役に回るその姿は信じ難いかもしれない。
外見を見ても、スパイラル模様に刈り込んだ髪形で舌を出しながら相手を挑発する今のスタイルと、以前のリーゼントヘアでタオルをかぶった寡黙な姿では180度異なる。
「とはいえ、鈴木自身の勝負へのこだわりは変わっていない。かつては対戦相手とだけの勝負だったものが、ファンやマスコミを含めたプロレス界を取り巻く環境すべてを相手に勝負するようになった。そう考えれば見た目の変化にも違和感はないでしょう」(プロレスライター)
鈴木がプロレスに本格復帰を果たすきっかけとなったのは、2002年に佐々木健介との対戦が持ち上がったことからだった。
若手時代、新日に所属していた鈴木とジャパンプロレスから合流した健介は、互いに意地をむき出しにしたファイトを繰り広げ、プロレス専門誌に“前座の名勝負”として取り上げられたりもした。
鈴木のUWF移籍により2人は袂を分かつことになるが、「互いにビッグになっていつか大舞台でもう一度闘おう」と誓い合った。その約束を果たすためというのが、鈴木が新日に参戦する名目とされた。
「ぶっちゃけ、それは鈴木を新日に招聘するためのアングルだったのでしょう。そのため、まず健介がパンクラスの大会で、鈴木と総合格闘技ルールで闘い、それから鈴木が新日に参戦するというのが当初の予定だったようです」(同)
ところが、そこでアクシデントが起こる。健介の師匠である長州力が、新日退団後に新団体WJの旗揚げを画策する中で、健介もこれに引き抜かれることとなったのだ。
結局、鈴木vs健介は実現に至らず、獣神サンダー・ライガーが代役として鈴木と闘い敗戦。その流れで鈴木はパンクラスにプロレス部門を立ち上げ、なし崩し的に古巣の新日に参戦することになる。
WJ崩壊後の'04年になって、やはりフリーとして新日に復帰した健介がIWGP王座を獲得すると、これに鈴木が挑戦する格好で大阪ドームでの対戦が実現。しかし、メインのどたばた(アントニオ猪木の横やりでカード変更)に話題をさらわれたこともあり、どこか盛り上がりを欠くものとなってしまった。
「試合内容自体も、互いに相手に合わせるような間延びした印象で、若手時代の気持ちをぶつけ合うという雰囲気は薄かった」(同)
時は流れて'07年。鈴木は着実にフリーレスラーとして実績を重ね、全日の三冠ヘビー級王座を獲得し、5度の防衛を重ねていた。
健介もまた、長州の呪縛から解かれたゆえか、それとも“鬼嫁”こと北斗晶の指導のたまものか、かつてしょっぱい試合ぶりからファンに“塩介”とあざけられた頃とは打って変わり、さまざまな団体でフリーの大物として名勝負を繰り広げていた。
そんな両者が共にフリー参戦ながら、全日両国大会のメインイベント、三冠戦で激突。名実ともに2人が業界トップに立ったことの証しとなる一戦であった。