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森永卓郎の「経済“千夜一夜”物語」 辺野古をどうするのか

 任期満了に伴う沖縄県名護市の市長選は、米軍普天間基地の名護市辺野古への移設に「断固反対」する現職の稲嶺進氏が当選した。稲嶺市長は、基地受け入れに伴う再編交付金に頼らないまちづくりを訴え、幅広い市民の支持を受けた。
 辺野古の埋め立て権限は、移転受け入れを表明した仲井真知事が持っているが、建設現場である名護市長にも、埋め立てのための土砂の採取や建設ヤードの使用を阻止する権限があり、辺野古基地の建設にブレーキがかかる可能性が高まった。
 市街地に立地する普天間基地の危険性を除去するため、あるいは日米同盟を堅持するため、一日も早い移設を進めるべきだというのが、いまの政府の立場だ。

 しかし、私はこれをきっかけに、もう一度原点に立ち返って、本当に辺野古移設が必要なのかを考え直すべきだと思う。
 普天間基地は米軍海兵隊の基地だ。海兵隊というのは、戦争が起きたときに真っ先に敵地に乗り込み、港や飛行場など、自軍が侵攻するためのルートを確保するのが基本的役割。もっとはっきり言うと、米中が戦争状態になったときに、中国を攻める先遣部隊を担うのが沖縄の海兵隊なのだ。
 ところが、すでに米国は中国との武力衝突を避ける方向に姿勢を変えている。だから防衛ラインをグアムまで下げた。安倍総理の靖国参拝に対して「失望」という評価を与えたのも、米中軍事衝突の要因を作るべきではないというアメリカの強い意思表示なのだ。
 米国自身が米中軍事衝突を避けようとしている以上、すでに沖縄の海兵隊の存在意義は大きく低下したことになる。だから日本政府は、普天間基地の単純返還を求めるべきなのだ。

 このまま辺野古基地の建設に突き進むと、私は『原子力船むつ』の悲劇を繰り返すことになりかねないと危惧している。
 原子力船むつは、1963年に建造計画が決まり、'69年に進水した。原子力で航行できる夢の船という触れ込みに国民は歓喜した。しかし'74年に放射線漏れが発生したため、母港であるむつ市大湊港への帰港が市民によって拒否された。また、他にむつの寄港を受け入れる港は、全国どこにもなく、漂泊を余儀なくされた。
 そこで、'81年に政府は、むつ市関根浜に新たな母港を建設することを計画し、地元と合意した。莫大な漁業補償に目がくらんだ地元漁師と、むつ関連の利権を手放したくなかったむつ市がカネと引き替えに政府の意向を受け入れたのだ。
 '88年に完成した関根浜港にむつは帰ってきたが、そのたった4年後の'92年に原子炉を停止、翌'93年には原子炉が解体撤去されることになった。時代の変化で、原子力船に何らメリットはないと認識されるようになったからだ。むつの新しい母港となった関根浜は、もともと昆布が生い茂り、アワビやサザエなど、豊富な海産物の採れる海の宝庫だった。それが、港の建設でその宝物は壊滅してしまった。

 辺野古の海は、ジュゴンが棲む美しい海だ。そこを埋め立ててV字型の滑走路が建設されようとしている。
 将来、米軍が海兵隊をグアムまで撤退させた後に残るものは何か。それは、関根浜の時と同じ、殺された海だけということになるのではないだろうか。

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