一口に“アントニオ猪木の名勝負”と言ったとき、人それぞれに考えは異なるだろう。猪木自身は引退前の東京スポーツ紙上のインタビューで、ドリー・ファンクJr.戦をトップに挙げている。
「'69年12月、'70年8月と2試合行われたNWA王座戦は、いずれも時間切れ引き分けに終わりましたが、2戦目は3本勝負のうちの1本を、猪木がジャーマン・スープレックスでフォールを奪ったことに価値がある。ただし、50年近くも前の日本プロレス時代の試合で、実際に当時の記憶がある人は今となっては少ないのでは? ノーカット版のDVDも発売されているので、そちらを見たという熱心なファンもいるでしょうが…」(プロレスライター)
ドリー戦と並んで高く評価されるのは、'75年12月のビル・ロビンソン戦である。
「ドリー戦同様にテクニックを競う好勝負でした。3本勝負の1本目を奪ったロビンソンが逃げ切り態勢に入ったところを、時間切れギリギリで猪木が卍固めに捕らえた劇的な展開。この試合が蔵前国技館で行われた同日に、全日本プロレスが『力道山13回忌特別興行』を日本武道館で開催するなど、熾烈な興行戦争が繰り広げられたというサイドストーリーも秀逸です」(同)
この前年に行われた日本人頂上対決、'74年3月のストロング小林戦も衝撃的なジャーマン・スープレックスの結末から、名勝負のトップに推す声は多い。
また、プロレスの一線を越えた“キラー猪木”の原点ともいえる、タイガージェット・シンとの腕折りのマッチ('74年6月)こそが、猪木の真骨頂というファンもいるだろう。
そうして並べてみたときに評価の難しいのが、異種格闘技戦として行われた'76年6月26日のモハメド・アリ戦だ。'16年はその世紀の一戦から40周年ということで、テレビ特番が組まれ、初のノーカット版DVDも発売されている。
「猪木vsアリ戦を検証するという名目で、当時のルールにのっとった異種格闘技戦が元リングスの田村潔司と元ボクシング王者によって行われました。結果は田村のキックが当たらず完敗。とはいえ、田村もすでに40代半ばの大ベテランで、この試合をもって猪木vsアリ戦を論じることはできないでしょう」(スポーツ紙記者)
いまだに猪木vsアリ戦について回るのが、まずこうしたルールの問題で「真剣勝負かエキシビションか」との論議は、今なお尽きることがない。
「関係者それぞれの立場によって試合の受け止め方が異なっていて、取材をしても結論が出ないというのが実際のところです」(同)
また、試合内容についても賛否は分かれる。
「総合格闘技が一般的になって以降、対ボクサー戦での猪木の戦い方が再評価されるようになりましたが、それはあくまでも技術面からのこと。試合そのものが面白かったかどうかとは、また別の問題でしょう」(スポーツライター)
当時の『ニュースセンター9時』において、磯村尚徳キャスターが「NHKが取り上げるまでもない茶番劇」とコメントしたのが象徴的な例で、プロレスに縁のない同局だから特別に冷淡だったというわけではなく、翌日は新聞各紙も軒並み〈凡戦〉と大見出しで報じたものだった。
「この頃はボクシングにしても、まだ“拳闘”というべき殴り合いが主流でした。間合いの奪い合いなどという概念がなかった時代にあの試合内容では、皆がつまらないと感じても仕方がありませんでした」(同)
当の猪木にしても「あれだけ悪評まみれで叩かれた試合が、なんでこんなに評価されているのか」と、のちのインタビューで戸惑い気味に語っており、試合内容に満足していなかったことがうかがえる。
「試合自体の評価が高まっているのとは逆に、過小評価されている部分もある。それはアリをリングに上げたという功績です」(同)
確かにアリの死に際しては、オバマ大統領も公式に追悼コメントを寄せている。
「そんなスポーツ選手は過去にも現在にも例がない。メッシだ、ネイマールだといったところで、それはサッカーというジャンル内に限ってのスターに過ぎない。アリはボクシング界にとどまらず、反戦や反差別の主張などその言動によって近代史にまで影響を与えました」(同)
'95年に猪木が北朝鮮で『平和の祭典』を開いたときのこと。金正日総書記は当初、ゲストとして現役スーパースターであるマイケル・ジョーダンの招聘を希望したものの、引退から15年が過ぎたアリを代わりに提案すると、即時に納得したとの話もある。
「もしJ2落ちした名古屋グランパスが、FCバルセロナからメッシを獲得したら、それは大ニュースとなるでしょう。しかし、猪木がアリを異種格闘技のリングに上げたのは、それ以上の“事件”だったのです」(同)
名勝負か否かはともかく、猪木vsアリ戦が格闘史に残るエポックだったことは間違いないのである。