昭和40年。この年は国際収支が好調の一方で、国内経済は不況、株式市場も38年以降の低迷を引きずっていた。その年3月には兵庫県姫路市に本社を置く山陽特殊製鋼が第2次大戦後最大の負債総額約500億円を抱えて倒産。その影響を受けて多数の関連会社、中小の下請会社が不渡手形で苦境に立たされ、連鎖倒産が続出というありさまだった。
一方で、政府はこの年11月、一般会計第2次補正予算を組み、折からの不況の中での税収不足による歳入不足分を補うため、約2500億円を戦後初の赤字国債発行で賄った。そうした中で、山一證券の倒産問題が急浮上したのだった。
この昭和40年前後の株式市場は機関投資家の株保有は今ほどでなく、個人投資家が60%を超えていた。ために、山一が倒産となれば国民生活、景気に与える影響は計り知れないことが予測された。
国としてリスクを負いながら山一を救済するのか、それとも目をつぶって見放すのか、田中の決断は何とも重いものがあった。
時に、その40年春先、すでに大蔵省は山一の危機を深刻に受け止めていた。そうした空気はやがてメディア各社の知るところとなり、報道準備に入っていた。一方で、報道すれば国民生活に不安をあおることにもなり、メディアには逡巡もあった。5月、こうした空気に大蔵省が先手を打った。山一の再建案が固まるまで、報道を控えてほしいとの要請をしたのである。
ところが、5月21日朝刊でブロック紙『西日本新聞』がこの山一危機をスッパ抜いてしまった。抜かれた形の他のメディアは、その日の昼のニュース、夕刊で一斉に報道したからたまらない。翌朝から山一の本店、支店、傘下の関連会社には株の運用預かりの引き揚げ、投資信託の解約を求める客が殺到、それは3日間で約70億円にも達した。このままいたずらに時間を費やせば、証券恐慌のみならず金融恐慌の引き金となる可能性もある。まさに、田中にとっては一世一代の決断の場ということであった。田中はどんな手を打ったのか。
田中の対応は、実に素早かった。『西日本新聞』朝刊がスッパ抜いたその日の昼、まずやったのは動揺する投資家へ向けての大蔵大臣談話の発表であった。
「山一證券については金融機関の協力を得、再建の方策を具体的に決めることになっている。ために、一般投資家に不安を与えることはない。投資信託もこれは別会社でやっていることだから、投資家に迷惑が掛かることは全くない。また、山一證券そのものは店舗や従業員を整理し、会社側の合理化計画や金融機関側の利子棚上げなどの特別援助措置で経常収支はつり合うものと予想される。日本銀行も必要とあれば、通常の資金繰りの枠内で弾力的配慮をすることもあり得る」
ここで注目すべきは、投資家の“まずは”の動揺を鎮める一方、最悪の事態を想定、「弾力的配慮」という言葉を使いながら、すでに大バクチとなる日本銀行による特別融資、すなわち「日銀特融」を視野に入れていたということであった。
こうした田中における決断の凡庸ならざるところは、事態の目先、あるいは一元的なものに目線を置くのではなく、あらゆる事態の展開を想定、すでに計算し尽くされた「次善の策」「三善の策」までが頭の中を駆け巡っていたことにある。「まず最善策を目指し、一方で次善、三善の策まで思いを致さぬようで、なんでリーダー、政治家なのか」は、田中の平素からの口癖でもあった。最善、次善、三善の策まで用意、一つ駒を動かせば必ずどこかに連動、あちこちに布石ができてしまうといった「王手飛車取り」とも言える田中流の手法、戦法は、後にまた数々の権力抗争を常勝に導いたゆえんでもあったのだ。
さて、蔵相談話が発表されて5日目、しかし、山一の株の運用預り引き揚げ、投信の解約は一気に止まらぬ事態になった。田中の「最善の策」の思惑は機能せず、むしろ山一以外の証券会社に飛び火、事態の拡大懸念が出てきたのであった。
しかし、「次善の策」は即、6日目に出た。大蔵省議の結果として、「まず民間での努力が不可欠。山一のメインバンクである富士、三菱、日本興業の主力銀行3行で融資、救済を行うことを要請する」との方針が明らかにされた。
ところが、これには銀行側が猛反発。田中のいよいよの「三善の策」、「日銀特融」という大英断が下されることになるのである。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。