それからしばらくは、マニアでも赤城山麓をうろつくことはあっても、発掘までやろうと思う者はおらず、県北の旧三国街道や旧沼田街道沿いの何カ所かで、地味な発掘が行われただけだった。
ところが、1999年に再び赤城山麓が注目される。仕掛けたのはまたもやTBSテレビ。『38時間テレビ・20世紀最大の黄金スペクタクル・徳川埋蔵金大発掘・炎のリベンジ・紅白の裏で考えるドロだらけの経済番組・徳川埋蔵金は日本を二度救う!』という、長ったらしく、ド派手なタイトルで、大晦日に長時間の発掘の生中継をやったのだ。
発掘場所は3カ所で、2カ所は以前の現場の北方に位置する長井小川田。うち1カ所は空中探査などハイテクの機器があぶり出したという場所で、元警察署長の三枝茂三郎が30年間掘ったところのすぐ近くだった。このとき、三枝の発掘小屋は放置されていた深い穴ごと、きれいさっぱり片付けられた。
そしてもう1カ所が、前の現場より少し南のゴルフ場の中。それを聞いて筆者は驚いた。そこに目を付けたのが、岩手県で肉牛の牧場を営むヤマナカタロウ(仮名)だったからだ。事前に連絡がなかったから、本当に掘るなんて思いもよらなかったのだが、画面を見ていたら本人が登場した。思えばヤマナカが筆者にコンタクトをとってきたのは、1994年のことだから、5年間の執念が実ったのだった。
ヤマナカが徳川の埋蔵金に魅せられるきっかけとなったのは、筆者がある雑誌に書いたレポートだった。かなりのページ数を割いてもらったので、もう一人の研究家とともに執筆し、それまでの探索の歴史や残された物証と痕跡を、余すことなく盛り込んだつもりだった。
するとヤマナカは『双永寺秘文』と井戸から出たと伝えられる銅皿の文字、すなわち「井」「八社」「子二四芝下炭」「未三二四芝下石」「亥雨芝下石」の謎解きに夢中になった。そして、人に見せてもいいと思えるほど自信がついたのだろう、最初は手紙で解読の内容について感想を求めてきた。
ただ、「どう思われますか?」と聞かれても、「よくここまで考えましたね」くらいは言えるが、その先の言葉が続かない。そもそも、秘文や銅皿の存在そのものが怪しいのだから、うまく解読できたかどうかの判定に、どれだけ意味があるというのか。
古文書の謎解きにはまるマニアは結構多いが、共通しているのは「考えすぎ」で「こじつけ」が多いことである。ヤマナカにもその傾向が感じられたので、否定はせずに「思い込みは大敵ですよ」とくぎを刺すにとどめた。
何回かの手紙のやりとりの後、どうしてもと言うので赤城山麓に同行することになり、最後に彼がたどり着いた場所に足を運んだ。そこが1987年開場の赤城ゴルフ倶楽部で、発掘調査が可能かどうか筆者が交渉役を頼まれたのだった。
ソフトな物腰の支配人は初めは驚きの表情を見せていたが、次第に笑みを浮かべるようになり、コース内を案内してもらうと、ヤマナカが地図上に×印を付けたところはグリーンでもフェアウエーでもなく、ホールとホールの間の狭間だった。
「不思議ですねえ」と支配人が首をひねる。その訳は、大きな岩が一つだけ不自然に転がっていたので、そこを避けてコースを設計したからだった。ヤマナカがすかさず「地上の目印では」とつぶやいた。
筆者がこの件に関わったのはそこまで。それがいつの間にかTBSに伝わって、発掘にまで進んだわけだ。結果は収穫なしに終わったが、もしかしたらゴルフ場側が積極的にテレビに話を持っていったのかもしれない。というのは、それからしばらくして、赤城ゴルフ倶楽部は徳川埋蔵金伝説のゴルフ場というキャッチフレーズを使うようになったからだ。おまけに8番のショートホールのホールインワン賞は本物の小判。これは現在も続けられていて、すでに10人以上がゲットしているという。(完)
八重野充弘(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。