ところが、遺体収容作業中に船内へ取り残された生存者が発見され、さらに船内からは幼い子供を抱えた女性の遺体も回収されるなど、船長の発言は事実に反していることが明らかとなったのである。しかし、当時はモンゴル国境で日ソ両軍が武力衝突した後、停戦ラインから国境を確定する交渉の最中であり、両国の関係は極めて微妙だった。
そのためか、船長の言動は不問とされ、生存者もそうそうにソ連へ帰国した。
そればかりか、ソ連側は収容が困難な遺体について「やがて腐り落ちるであろうから、そのままで良い」としたうえ、漂着したり回収された乗客乗員の所持品や船内の物品などについても「焼却処分」を依頼したのだ。猿払で回収された遺留品は、馬車で12台分にも上ったとされているが、結局はソ連側の意向に従って全て焼却されたのである。
このようなソ連側の動きに加えて、帰国の決まった生存者が「戻ったら処刑されるだろう」と漏らしていたとの噂まで囁かれるなど、非常にきな臭い、怪しい雰囲気が満ち溢れていた。とは言え、ソ連側の不信な動きや噂は、あくまでも風説として片付けられ、猿払の浜も落ち着きを取り戻していった。ただ1941年の初夏に船体が爆破解体され、ふたたび多数の遺体や遺骨が回収されているが、直後にドイツがソ連へ侵攻してしまい、やはり有耶無耶となってしまったのである。
そして半年後の真珠湾攻撃から太平洋戦争、さらには敗戦、東西冷戦と揺れ動く世界の中で、船長やソ連当局の不信な言動は記憶の彼方へ遠ざかっていった。ただ、悲劇的な遭難事件は猿払の人々に語り継がれ、東西の緊張が緩和した1970年代には、日ソ友好の先駆けとして広く顕彰されるようにもなった。
しかし、猿払村をはじめとする北海道の人々が救助活動で示した献身と勇気とは全く別問題として、インディギルカ号の遭難に際していくつか不審な点が存在していること、そしてその謎は解明されていないことは確かだった。特に女性と子供を含む乗客の一部が見殺しにされたこと、そして船長が虚偽の発言をしたこと、さらにはソ連当局にも隠蔽工作のような動きが見受けられたことについては、人道上の見地からもとうてい見過ごせない行為であった。
(続く)