何よりも、大臣室への訪問客の多さが目立った。陳情客の他、友人、知人と称する“田中ファン”が連日押し寄せ、これが1日100人は下らなかった。大臣秘書官はあまりの訪問客の多さに、1日の仕事の大半がそうしたスケジュール調整に追われるといった具合だった。また、そうした訪問客の間ゲキを縫ってというべきか、事務当局の大臣への“ご進講”があるのだが、自信満々の田中はそんなことは百も承知だとしてアキアキしてしまうらしく、話半分で“角栄独演会”で局長クラスをケムに巻くのだった。例えば、こうであった。
「私はね、国会答弁での想定問答集なんか読まんよ。これまでは答弁に局長、局次長クラスを動員したようだが、これからはたいがいの答弁は私一人でやるッ。大体、そんなコトは事務効率の低下だ。私はね、金融はともかく財政はクロウトだ。この12年間でも、予算編成に立ち会わなかったのはたった2回だけでね。私が立ち会わなかったときに限って編成作業はモメたんだ」
この自信満々の大臣が、衆院大蔵委員会で就任後、国会での初答弁に立った。初日のこの委員会席は、田中が政調会長時代に「沖縄発言」などの“前科”があったことなども加わり、失言もあるかと興味シンシン、満席であった。ところが、田中は減税、消費者米価の値上げ問題などの矢継ぎ早の質問にもなぜか「慎重に検討したい」の一点張り、“勇み足”を心配して詰め掛けていた大蔵省幹部をホッとさせたのであった。
しかし、この大蔵委員会審議での野党側からは、「慎重に検討したい」の大臣答弁の連発にシビレを切らしたか、「大臣は官僚出身でないにもかかわらず答弁にソツがなさ過ぎないか」と不満も出始めた。ついには、田中の政調会長時代にブチ上げた日銀法改正、預金金利の引き上げ論にホコ先を変えて迫ったが、田中はここでも「当時とは経済情勢も変わっているので、軽々に結論は出せませんナ」と、軽くイナしてしまうのだった。こうしたあまりのソツのなさにアタマにきたか、当時の民社党の論客、春日一幸は言ったものだ。
「田中蔵相は政調会長時代に比べて、カドが取れ過ぎておる。これでは田中角栄にあらずして“田中丸栄”である」
一方で、当時の田中にはこんなエピソードもある。あの田中が大蔵省幹部たちの前で、思わず大粒の涙を見せたという話である。経緯は、こうであった。
閣議に出る前、田中は大蔵省幹部からあらかじめ受けていたレクチャーを、そのまま閣議の席でしゃべった。田中はその後、大蔵省に戻ると、幹部たちを前に得意気に閣議でしゃべった内容を話した。ところが、幹部たちの表情が変わったのである。しばし沈黙があった後、当時の官房長の佐藤一郎(後に事務次官。政界入り後に経済企画庁長官)が、やおら口を切った。
「大臣。今のお話では私どもが事前に差し上げた資料、並びにご説明したものと相違しております」
ここで、田中の顔色がみるみる変わったのだった。佐藤官房長と、こんなヤリトリになった。「いや、私は資料なんて絶対もらっておらんよ」「いえ、ちゃんとお渡ししてあります」「私はね、君たちからもらう資料はこれまで全部読んでいる。もし、もらっていたら必ず読んでいるはずだッ」「いえ、お渡ししてあるはずです!」。
そのときだった。田中の両眼から、ポタポタと大粒の涙がこぼれ始めたのだった。佐藤官房長はじめ並いる幹部の間には、驚きとともに気まずい空気が流れ始めた。
しかし、次の瞬間、こうした空気を見て取ったかのように田中は、「失礼ッ」と言って立ち上がるや、大臣室の洗面所で水道の栓を目一杯開き、バシャバシャと音を立てて顔を洗い、やがて幹部らの前に戻るやこう言った。「すまん。私のミスだった。よし、聞く。次は何の話だッ」。
このときの田中の涙について、当時、“解釈”は二つあった。大蔵省担当記者の話が残っている。
「東大法学部卒のエリート中のエリート官僚の前で、思わず自分の学歴の乏しさがフッと頭をもたげ、寂しさ、悔しさが一気に噴出したのではないかとの見方が一つ。もう一つは、田中一流の巧まざるの人心収攬術の最たるものとの解釈だった」
いずれにせよ、田中はここで「潔さ」を示した。大蔵省幹部らとのこの件でのあつれきは、一瞬に吹き飛んだ。「潔さ」は、あらためて男の魅力の一つを見せつけた格好の田中であった。
ケロリ、田中は持ち前の立ち直りの早さで、なお大蔵省に“砂塵”を巻き上げ続けることになるのである。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。