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天保の飢饉、天明の飢饉で全滅した消えた村巡礼 信州「甘酒村」「大秋山村」ここで村人全員が飢え死にした…

 息を切らせながら、ひとり尾根道を登っていた。その道は、江戸時代以前より信州・秋山郷と下界とを結ぶ生活の道であった。今では、時おり山歩きを楽しむ人が足を運ぶだけだ。

 聞こえて来るのは、私の足跡と、ヒグラシのような物悲しい音を響かせているエゾハルゼミの鳴き声だけである。

 獣が出てこないか不安になり、発作的に「ウオーッ」と声をあげる。熊やイノシシを避けるには、こちらの存在を知らせるしかない。雄叫びの効果があったのか、50メートルほど先でガサゴソと音がしたかと思ったら、暗灰色をした体長1メートルほどのイノシシが背を向けて逃げて行った。

 私が向かっていたのは、かつて秋山郷にあった「甘酒村」という名の村である。名前の由来は、字の通り、そこで酒を造っていたことから付いたそうで、なんとも言えぬ生活の匂いが漂ってくる村だ。

★本当にあった甘酒村全滅前夜、死の光景

 今では廃村となってしまっている甘酒村だが、そうなった理由は情緒ある名前とは対照的に、極めて悲劇的だ。江戸時代には日本全国で飢饉が頻発したが、三大飢饉のひとつである天保の飢饉(1833〜1836)がこの村を襲い、全ての村人が飢え死にしたのだ。

 尾根を20分ほど登り、平坦な場所に着いたと思ったら、そこが甘酒村のあった跡だった。ぽっかりと森が開け、水田が広がっている。水田を見下ろすように墓石が置かれていた。もともと墓石は周囲の森の中に放置されていたのだが、他の地区の人々が霊を弔うために1カ所に集めたという。この地で無念の死を遂げた人々は、初夏の爽やかな風に揺られる稲をどんな思いで見つめているのだろうか。

 秋山郷で稲作が行われるようになったのは、明治時代に入ってからのことだ。江戸時代はやといった雑穀や蕎麦が主食であり、森林を切り開いた焼畑によって日々の糧を得ていたという。私は、村の女性からこんな言い伝えを聞いていた。

「ちょうど飢饉のあった年のことだったそうです。秋山郷には雑穀や栃の実を混ぜて作った“あっぽ”という郷土食があるんですけど、甘酒村の人が『もう食べ物がないから、あっぽを分けてもらって来なさい』と子どもに言ったそうです。その間に穴を掘って、子どもがあっぽをもらって戻ると、『半分あげるから穴の中に入りなさい』と言って、そのまま生き埋めにしたそうです」

 家族が生き残るため、子どもを殺めても、甘酒村は結局、全滅から逃れることはできなかったのだ。生き埋めにされた子どもは、村のどこかに眠っているのだろう。

★墓に刻まれた「10月3日」の命日

 秋山郷が世に知られたきっかけは、そもそも江戸時代にまで遡る。『北越雪譜』の著者として知られている鈴木牧之が、1828年にこの地を訪ね、『秋山紀行』を著したことによる。

 牧之はその時、甘酒村にも立ち寄り、村にあった2軒の民家を訪れて、ひとりの女性と会話を交わしている。女性は牧之に「天明の飢饉では、大秋山村が全滅してしまったが、私の村は何とか大丈夫だった。食べ物にも困っていない」と言った。しかし、それから10年も経たぬうちに天保の飢饉が起こり、甘酒村の人々はすべて亡くなってしまった。おそらく、牧之と話をした女性も、その時に亡くなったことだろう。

 甘酒村が全滅した原因は天保の飢饉にあるが、それより約50年ほど前にあった天明の飢饉(1782〜1788)に際しても、同じ秋山郷にある大秋山村と矢櫃村の2つの村が全滅している。大秋山村は、秋山郷でも最初に人々が集落を形成した場所だったことから「大」の字が付いたところで、飢饉が発生した当時、8軒の家があったという。私はその場所へと向かってみた。

 薄暗い林の中の道を30分ほど歩いていくと、かつての大秋山村の集落跡に着く。その目印は、1カ所に集められた墓である。

 ひとつの墓には、「十月三日」という命日が刻まれていた。天明の飢饉の際に亡くなった村人のものだという。旧暦の10月といえば、新暦でいう11月下旬ぐらいのことだ。秋にほとんど食べ物を収穫できず、冬を前にこの人物は息絶えたのだろう。私は名も知らぬ故人の墓標に手を合わせた。

 ここ秋山郷では、飢饉によって3つの村が全滅したが、それ以外の地区でも、少なからぬ死者が出ていて、かろうじて全滅を免れている。例を挙げれば、天明の飢饉では、小赤沢地区で32軒のうち9軒が全滅し、秋山郷全体で173人が亡くなっている。天保の飢饉の際には和山という地区で、5戸あった家が男女2人を除いて全滅している。常に飢饉による飢え死にと隣り合わせの生活を余儀なくされていたのだった。

※ ※

 大秋山村跡の近くに屋敷という地区がある。そこで91歳になるという老婆と出会った。昔の生活はどのようなものだったのか。

「昔は畑まで1時間半も歩かなきゃいけなかったから、朝早くから家を出て、それから畑仕事をして、夕方家に帰ってきたら石臼を引いたりして、夜中まで働きどおしだったよ。田んぼはなかったから、お米は食べられなかった。ここで田んぼを掘ったのは、戦争が終わってからだ。昔に比べたら、いい時代になったな」

 江戸時代の飢饉で最後に村人が死に絶えた時代から、およそ200年の年月が過ぎた。老婆の話を聞きながら、日々食べられることが当たり前ではないという思いを、私はあらためて噛みしめたのだった。

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