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甲子園100周年 知られざる「白球史」と「暗黒史」(1)

 100回目の夏。『第一回中等学校優勝野球大会』の名で産声を挙げた夏の甲子園大会が、今年、節目を迎えた。大正4年に始まったこのイベントが、なぜこんなにも日本人に愛されてきたのか。夏の甲子園とは、郷愁の文化でもある。 その郷里を思い出す大会は、政治を動かしたこともあった。 昭和33年、夏の甲子園大会は節目の40回を迎え、その記念大会として、当時、アメリカ領だった沖縄県を加え、大会史上初となる全都道府県の代表校を揃えた。その沖縄県代表校の座を勝ち取った首里高校は一回戦で敗れ、他校の球児同様、甲子園の土を持ち帰った。しかし、彼らを待っていたのは辛い現実だった。 那覇港に到着した彼らは、甲子園の土を捨てるよう、指示される。アメリカの法律では外国の土は持ち込めず、植物検疫法に抵触した。甲子園の土も『外国の土』と見なされ没収。首里校ナインが涙ながらに甲子園の土を捨てる姿は大きな反響を呼んだが、この話には続きがあった。 日本航空の客室乗務員、近藤充子さんが甲子園の小石を同校に届けた。小石はグラウンド整備中に取り除かれたもので、約40個あった。客室乗務員という職業上、「植物検疫法に土は抵触するが、石は対象外となる」盲点を知っていたのだ。 同大会に出場した他校有志も、甲子園の土で作った皿を贈っている。首里高ナインの涙は、『沖縄返還運動』をさらに高め、昭和47年5月の返還へと繋がっていく。 沖縄県勢が初めて全国の頂点に立ったのは、平成11年(沖縄尚学)。首里高校が出場してから41年目の春だった。夏の甲子園を制したのは平成22年の第92回大会である(興南高校)。 また、『甲子園の土を持って帰る儀式』だが、その始まりには諸説ある。昭和23年、小倉中等学校(現・小倉高/福岡県)のエース、福嶋一雄氏が準々決勝で敗れた後、ひと握りの土をポケットに入れた。それが第1号だという。 昭和12年夏の第23回大会。決勝戦を戦った後、熊本工業高校の川上哲治・元巨人軍監督が袋に入れたとも伝えられている。川上哲治記念球場、熊本工にはそれらしき品物は残されていないが…。 甲子園の土は島根県にもある。甲子園球場では定期的に土の入れ替え作業が行われている。のちに衆議院議員も務める岩國哲人氏が出雲市長だったころ、『出雲ドーム』が着工された。大阪府出身の同氏は、その着工中に甲子園球場の土の入れ換えがあることを知り、そのまま譲り受けたのだ。島根県庁にも確認したが、出雲ドームのマウンドは甲子園の土で造られたそうだ。 近年、甲子園のような天然芝と土の野球場は少なくなった。同球場は阪神園芸の優秀なスタッフによって整備されてきた。その職人芸のグラウンド整備について、甲子園常連校の一つ、横浜高校元野球部長・小倉清一郎氏は、 「春と夏で外野の芝の固さが微妙に違う」 と語ったことがある。 違って、当然なのである。センバツ後、阪神タイガースは甲子園でペナントレースを戦う。それに揃えて芝を手入れするのだが、阪神園芸のスタッフは、内外野ともに「イレギュラーをさせないこと」に努めてきた。いまだイレギュラーで球児に怪我を負わせたことは一度もなく、彼らはそこにポリシーを持っている。 5回裏が終了した時点での水撒きにしても、適度な乾きを残す“微妙な加減”があるという。

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