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非業の死を遂げた名力士 「貴ノ花(大関)」

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提供:週刊実話

 人間の運、不運、いいとき、悪いときは、どこかでちゃんとバランスが取れているのかもしれない。この男の一生を振り返ると、つくづくそんな思いにかられる。

 この1年、常に騒動の渦中にあり、最後は退職にまで追い込まれた元貴乃花親方の父親でもある元大関貴ノ花(本名花田満)は昭和25年2月19日、北海道室蘭市で生まれている。10人兄弟の末っ子で、22歳も離れた一番上の兄が「土俵の鬼」と言われた人気力士、初代横綱若乃花だった。若乃花は初めてこの年の離れた末弟と対面したとき、両親にこう言い放った。
「いい加減にせいや。何人産んだら気がすむんだ」

 だが、すでにこのときから貴ノ花は長兄のあとを追って力士になるべく、運命付けられていたと言える。

 早くして父親を亡くしたため、一家は長兄の若乃花を頼って上京。貴ノ花も東京で成長した。そして、中学に入ると水泳のバタフライでメキメキと頭角を現し、末はオリンピックの金メダル候補と期待されている。

 しかし、貴ノ花の思いは違った。
「水泳じゃメシを食えない」
 およそ15歳の少年とは思えない大人びたセリフを吐き、すでにその頃、引退して二子山部屋を興していた長兄の下に入門したのだ。

 兄譲りの運動神経と猛稽古、それに甘いマスクで早くからファンの注目を浴び、出世も超スピード。初土俵からわずか17場所で、負け越し知らずのまま十両に昇進。このとき、18歳。これは当時の最年少記録だった。

 その十両も4場所で通過。18歳8カ月の入幕も最年少記録だった。

 こうして、たちまち長兄に負けないような人気力士になった貴ノ花は、20歳のときに、また世間をアッと驚かせている。周囲の猛反対を押し切って松竹の女優だった3歳年上の藤田憲子(現・藤田紀子)と結婚したのだ。2人の仲を取り持ったのが先日、70歳で亡くなった元横綱の輪島だった。

 やがて2人の間には、2人の男の子が生まれる。長男の勝、次男の光司。後に、いずれも人気横綱になった若乃花、貴乃花だ。

 こうして土俵の内外ともに充実した貴ノ花は、昭和47年九州場所、大関に昇進。それから3年後の昭和50年春場所千秋楽、日本中が熱狂する中で優勝決定戦の末に横綱北の湖を破り、待望の初賜杯を抱いた。

 優勝が決まった瞬間、審判部長だった師匠で長兄の二子山親方は唇を震わせ、興奮しきった顔で次のように話した。
「全身の血が逆流するようだ」

 貴ノ花は、その3場所後にも再び北の湖を優勝決定戦で破って2度目の優勝を果たしているが、残念ながら長兄と同じ横綱にはなれなかった。鉄人のような長兄に比べて肝臓などの内臓が弱く、ひとまわり線が細かったのだ。

 晩年には頸椎も痛めて、昭和56年初場所、ついに引退。まだ30歳ながら、大関在位50場所は当時の最長記録だった。

 引退後は、「藤島」を襲名。大成できなかった鬱憤を晴らすように部屋を興して、弟子の育成に打ち込んでいく。

 この弟子育成が軌道に乗り、花開いたのは、昭和63年の春場所。息子の若乃花、貴乃花(当時は若花田、貴花田)が揃って入門してからだ。2人は相次いで横綱に昇進。また貴ノ浪も大関になり、さらに安芸ノ島、貴闘力ら、猛者がまさに群雄割拠。旧二子山部屋と合併し、二子山部屋となった平成7年夏場所には、横綱貴乃花を筆頭に幕内9人、十両2人の計11人の関取を擁す、大相撲界一の大部屋になっている。

★洗脳、兄弟絶縁、離婚騒動…
 しかし、ほどなくして、満月が欠けるように隆盛を誇った貴ノ花改め二子山親方の運命にも、暗い影が忍び寄る。様々なスキャンダルやトラブルに見舞われるようになったのだ。

 その頂点が“平成の大横綱”に成長した貴乃花の「洗脳騒動」だった。平成10年、貴乃花が師匠であり、父親の二子山親方の言うことよりも、自分が心を寄せる整体師の言うことを信頼し、従うようになったのだ。

 かつて“若貴”と言われて仲がよく、日本中から「お兄ちゃん」と呼ばれた兄の若乃花すら無視するようになった貴乃花の心を取り戻そうと二子山親方は苦慮し、頭に円形脱毛症ができるほどだったが、1年後にこの騒動は終息した。ようやく貴乃花が整体師のもとから離れたのだ。

 とはいえ、この仲直りは表面だけ。若乃花とは今も絶縁状態で、二子山親方との仲も最後までギクシャクしたまま終わっている。

 こんな二子山親方に追い打ちをかけるように勃発したのが、自身の離婚騒動だ。結婚31年目の平成13年、大所帯の相撲部屋をテキパキと切り盛りし、「おかみさんのかがみ」とまで言われた憲子さんが突如部屋を飛び出し、やがて離婚することになったのだ。

 どうして大恋愛の末に結ばれた2人が別れることになったのか。

「(理由を)言えたらラクですが、絶対に言いません。親方個人のことだから、明かすことはできない」

 後にタレントになった憲子さんは、このようにテレビ番組内で語ったが、当時のマスコミは憲子さんと18歳年下の青年医師との不倫を大々的に報じた。

 いずれにしても、この離婚が二子山親方の心に大きな傷を作ったのは確か。ただ、間もなく寂しさを癒やしてくれる女性が出現。4年後に亡くなるときも、入院生活を支える京都出身の妙齢の女性の姿を関係者に目撃されている。

 その一方で、二子山親方は相撲協会内で着実に出世の階段を上っていった。平成8年に理事に初当選して巡業部長の要職に就いたのを皮切りに、審判部長などを歴任。平成16年には協会ナンバー2の事業部長に就任すると、引退して一代年寄になった貴乃花に部屋を譲って協会の仕事に専念し始めた。

 もし何事もなかったら、やがて理事長の目も開けたかもしれないし、平穏で豊かな老後が待っていたに違いない。

★自身の葬儀で息子がケンカ
 しかし、またまた二子山親方を不幸が襲った。それも致命的な…。

 発端は平成15年秋頃、アゴのあたりに感じたかすかな痛みだった。当初は口内炎と発表されたが、平成16年になると症状が次第に深刻化。入退院を繰り返すようになり、北の湖理事長すら、お見舞いに行けない状態が続いた。

 病名は固く伏せられ、貴乃花によって舌の奥から歯茎のあたりにできる「口腔底がん」に侵されていることが公にされたのは平成17年2月になってからだった。

 こんな不治の病に侵された二子山親方が最後にファンの前に姿を現したのは、その半月前の1月30日、両国国技館で行われた大関貴ノ浪の断髪式のときだった。
「なんとしてもマゲにハサミを入れてやりたい」

 自ら足を運んでスカウトした弟子だけに思い入れは深かったようで、周囲の反対を振り切って病室から国技館に駆け付けた二子山親方。しかし、薬のせいで顔は土気色で大きく腫れあがり、足元は覚束なく、土俵に上がるのも呼び出しの肩を借りてやっとの状態。それでもしっかりとマゲを切り、貴ノ浪を大泣きさせた。

 そんな二子山親方に、ファンは現役時代、何度も土俵際に追い詰められながら反撃した驚異の粘り腰で再起することを期待し、声援を送ったが、やはり叶わなかった。

 このあと、重篤な状態に陥り、3月の春場所中も貴乃花親方は再三、審判の仕事を抜けて病院に駆けつけている。最後はがん細胞が皮膚を破って表面に出るほど病巣が広がっていたそうで、通常の2倍のモルヒネを打って痛みに耐えていたが、5月30日午後5時40分、東京都内の病院で永眠した。まだ55歳だった。

 6月1日の通夜には1200人が参列。翌日の葬儀にも600人のファンが押しかけ早すぎる別れを惜しんだが、この二子山親方の死を悲劇的にしたのは、その遺体の枕元で2人の息子が喪主を巡りあわや掴み合いのケンカをしたことだった。

 結局、喪主は兄の若乃花が務めたが、これがこの兄弟の不仲にトドメを刺した。当然、先日の貴乃花親方の相撲協会退職、貴乃花部屋消滅のときも、兄にはなんの相談もなしだ。

 かつて日本中が羨ましがった仲のいい家族が、今や母親を含めてバラバラ…。

 故二子山親方はこんな家族を草葉の陰からどんな思いで眺めているだろうか。

相撲ライター・大川光太郎

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