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プロフェッショナル巧の格言 第41回 山川豊 マネージャーなしで営業に行かせた“演歌界のドン”の厳しさと暖かさ(1)

 「僕が『函館本線』でデビューしてから今年で、33年ですよ」と感慨深く語るのは、演歌歌手の山川豊だ。
 「僕は長良じゅん会長に育ててもらいました。いまだに会長が亡くなったとは信じられません」
 長良じゅん会長とは、2年半前の5月2日にハワイのゴルフ場で不慮の事故死を遂げた『長良プロダクション』の会長で、“演歌界のドン”と呼ばれた芸能界の重鎮の一人だ。
 「名古屋のカラオケ大会で優勝すればレコード会社からレコードを出せるというんで、出場したら優勝。そして縁があって、長良会長にたどりつきました。会長は日本レコード大賞の第1回受賞者の故・水原弘さんのマネジャーをやっていたこともあって、水原さんと同じ低音の僕に興味を持ってくれたみたいです」

 山川は三重県の陸の孤島と呼ばれた地域で生まれ育った。
 「育ったところは陸の孤島で娯楽は何もなかった。子供の頃、やっと電話が入ったというほどの田舎で、高校の頃までお風呂がなく、近所にもらい湯するほど家は貧しかった」

 山川は、意外にも子供の頃は,歌に全く興味がなかったという。
 「興味を持つようになったのは兄の鳥羽一郎の影響でしょう。船乗りだった兄は田端義夫さんや北島三郎さんの歌をよく聴いてましたから。しかし、中学生の頃に五木ひろしさんをテレビで見て衝撃を受けました」

 『よこはま・たそがれ』でデビューした五木ひろしは、当時、紅白歌合戦にも出場。'73年には『夜空』で日本レコード大賞を受賞。押しも押されもせぬスター歌手になっていた。
 「何かオーラみたいなものを感じたんです。自分もこの人みたいになりたいなと思いました。苦労に苦労を重ねてこられて、それが表情に現れていた。“母親に楽をさせたい”という五木さんの思いとか、いろんなものが伝わって来て、歌に魂が入っているというか、すごいなぁって感動しました」

 山川は中学を出ると手に職を付けるために職業訓練所の寮に入ったが、天井には五木のポスターを貼っていたという。
 「板金の基礎を学ぶ厳しい毎日で余計、五木さんの歌が心に沁みて、唯一の心の支えでした。力が湧いてきて風呂場で歌って後輩に聴かせた。それが僕の最初のステージでした」
 山川は五木の『よこはま・たそがれ』や『霧の出船』、それに親が漁師だったことから『海から来ました』というB面の曲を好んで歌っていたという。

 職業訓練所を出た山川はその後、自動車会社に勤務するが、仕事が手につかないほど歌に夢中になっていたという。
 「名古屋にいる姉から“歌えるところがある”と言われてキャバレーに入りました。キッチン担当だったんですが、仕事の合間に歌わせてもらったんです。それからカラオケ大会で優勝して歌手になれたんです」

 歌手になることを決意した山川はとりもなおさず、上京した。
 「その頃、兄はマグロのはえ縄漁船に乗っていた。おふくろに、弟が歌手になると言う電報を打ってもらったんです。すると1週間もしないうちに兄が上京。船村徹先生の居場所を捜せと言う。捜せと言われても、東京は右も左もわからない。当時、船村先生は日本テレビの『おんなののど自慢』の審査員をやっていて九段のホテルを定宿にしていたことがわかったんです」
 ホテルに押しかけて直談判。兄の鳥羽一郎は船村先生の弟子になって、兄弟そろって、歌謡界のスタートラインに立ったのだ。

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