この画期的ともいうべき2枚のアルバムをプロデュースしたのは、島倉千代子の『人生いろいろ』や天童よしみ『珍島物語』の音楽プロデュースを手掛けた山田廣作。スキンヘッドで髭面の一見コワモテに見える山田は、業界では“山田会長”と呼ばれ愛されている人物だ。
「イジメによる自殺のニュースが後を絶たない。子供たちが幸せな生活を送るためにはどうしたらいいか、と悩んでいるとき、チベット仏教の最高指導者でノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ14世による“イジメ撲滅”の詩に出会った。その詩をアレンジ。レコード会社の尽力で世界的なアーティストによるアルバムが完成したんです」
常々、「歌はメッセージだ」と力説する山田は、鹿児島生まれ。父親が働く三池炭鉱のある大牟田市(福岡)で育った。
「僕は悪ガキで勉強も嫌いでしたが、歌だけはうまかった。小学校の頃から、大会に出て東海林太郎の曲を歌っていました。将来は歌手になる夢を持って東京に出てきたんです」
歌手を目指し上京した山田だったが、『日本著作権協会』(JASRAC)の社員募集広告が目に止まり「ここに入れば歌手になれる」と思って応募したという。
「当時、著作権協会の会長は『青い山脈』『蘇州夜曲』それに村田英雄さんの『王将』など数々のヒット曲を作詞した西條八十先生でした。面接のときに『君は赤とんぼを作曲した山田耕筰先生と同じ名前か』と面接官が笑いながら接したんで、受かるなと思いましたよ」
入社はしたものの、同協会は著作権を管理する組織で歌手の養成所ではなかった。山田は2年あまりで退社した。
「知人の紹介で作曲家の浜口庫之助さんのマネジャーになったことで、芸能界に足を踏み入れたんです」
浜口氏の歌謡界での通称は“ハマクラ天皇”。『黄色いさくらんぼ』『愛して愛して愛しちゃったのよ』『バラが咲いた』、石原裕次郎が歌った『夜霧よ今夜も有難う』など数々のヒット曲を生みだした大御所だ。
「いつか僕の歌を聴いてもらえると思ったら、『今度、またな』とはぐらかしてばかり…。結局、ハマクラさんのところで覚えたのはゴルフだけ。先生がいない間にクラブを振って覚えたんです。その後、マネジャーを辞めて日本テレビに出入りしていたときに、作家の飯干晃一さんとバッタリ会ったんです」
飯干氏は読売新聞社会部記者を経て作家に転向。『山口組三代目』を執筆、映画化された東映の大ヒットシリーズ『仁義なき戦い』の作家としても有名だ。
「艶福家のハマクラさんは、大阪に好みの女性がいた関係で読売テレビ制作の『11PM』に出演していた。飯干さんもレギュラーだった縁で僕とも親しかったんです。飯干さんから『スポンサーを連れて来るから番組を作らないか』と誘いがあったんです」
山田のプロデュース人生の転機となった。