その中でかなり核心に迫っているのではないかと評価できる人物が2人だけいる。1人はまだ現役で調査を継続中なので公表できないが、ここでは1980年(昭和55年)に78歳で死去した、高崎市の剣持汎輝の事績についてご紹介する。
筆者が剣持とコンタクトしたのは、亡くなる前年のことだった。直接会うことはなかったが、電話で何度か話し、手紙も数通もらった。おそらく自分の寿命を悟り、それまでの成果を誰かに伝え、後を託したいという思いだったのだろう。
剣持の家には代々『源家訓閲集』という古兵法書が伝えられてきたという。これは、平安貴族で学者だった大江維時が、唐から持ち帰った兵法書を日本風にアレンジしたものが基になっていて、源氏の武将をはじめ、以後の戦術家たちが改良を加えて伝えてきたものらしい。徳川幕府にも最後まで、同系統のものが徳川流兵法として伝授されてきたという。
筆者が八門遁甲について調べ始めたのは、剣持と知り合う2年ほど前のこと。最初は何ら資料がなく途方に暮れたが、しばらくして、占いの『奇門遁甲』がこれと同じものだということを知り、ようやく国会図書館で目にしたのが、明治17年に出版された『八門遁甲要録』(全4巻)だった。ただこれも、今で言えば年初に発行される十干十二支や九星に基づく運勢表のようなもので、しかも序文には「中国伝来のこの占術の極意を知るにはあまりに資料が乏しい」と書かれていた。
おそらく八門遁甲は、武士の支配階級のごく一部にだけ、書き物にせず口授口伝で伝えられてきた秘中の秘だったのだろう。現在は占術の形でしか残っていないが、かつては兵法も、吉凶をさまざまな方法で占い、それを戦術に組み込んでいたと思われる。
また、太閤秀吉の埋蔵金など、この秘法で隠されたと伝えられる他の埋蔵金についての文書などを調べていくうちに、軍用金の調達や配備などに関するノウハウも盛り込まれていたことが想像できた。
剣持は最初から徳川埋蔵金を狙って八門遁甲の研究を始めたわけではない。家伝の源家訓閲集の中身を理解しようと、易学、九星術、四柱推命、陰陽五行論の哲理について研究していたところ、たまたま徳川埋蔵金関係の文書と出会う。
文書を持ち込んだのは、一時、水野義治の発掘を手伝っていた桜井柾寛で、桜井が急死したため、その後を引き継ぐことになったのだ。それが1966年(昭和41年)のこと。
文書は3種類あった。一つは水野父子も三枝もよりどころとした『双永寺秘文』。あとは、千葉県の旧家から出てきた『椎名家秘文』と、水戸徳川家にあったという若月三郎ヱ門兼隆なる人物から勝安房守に宛てた『将軍秘 認証状』だ。
このうち、双永寺秘文と椎名家秘文には多くの共通点があった。一八六、二九七、三一八、四二九、五三、六四、七五という数字の並びと、「七臣ニ達スレバ分証揃テ茲ニ一将顕ル」(双永寺秘文)、「上州赤城山津久田原七臣伏して大将軍を守る」(椎名家秘文)のくだりだ。「一将」「大将軍」が埋蔵金を表し、七つの手掛かりをたどっていけば、そこに到達できるということではないか。
そして、二つの文書の要素を抽出し、試行錯誤の上につくり上げたのが、円盤状の埋蔵設計図である。円の中心から24の行に区切り、十干と十二支、易の乾・坤・巽・艮(運勢や方位の吉凶を占う基本図像)それぞれを配置したものだ。埋蔵実行者はこれと同じものをつくって事を進めたと考えた。
将軍秘 認証状の方は、大判小判や金の延べ棒一万六千二百十六貫を運んだなど、記述が具体的だが、「徳川亀之助」とか「越前堀」とか「伝馬船清快丸五十五隻」といった言葉が、脈絡がなく唐突に出てくる。剣持はこれが、設計図をたどっていく手引書だと気付く。その解釈に、これまで研究してきた東洋占星術の知識が役に立った。
まず「徳川亀之助」は、16代目の将軍になるはずだった家達の幼名で、易のルーツである『亀卜』につながることから、これが基点を表すものと解釈した。他の語句も一字一字細かく分析し、そこに潜む方角などを割り出した。
そのプロセスはあまりに複雑なため全ては説明できないが、ともあれ、剣持は赤城山麓に基点と考えられる場所を発見した。原野の中にぽつんと立つ十二神社である。(続く)
八重野充弘(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。