連日の6番の白黒ユニホームながらも逃げ切っている高橋。だが、まだ駆け出しの新人が日本選手権を逃げ切ろうとは、多くのファンは予想していなかった。マーク須田一二三(三重・16期)は全然伸びず、3番手の伊藤繁が2着に入り(5)(3)は6730円の穴になった。
当時は枠単が人気だったから、いかに高橋の快走がファンに驚きをあたえたかわかる。
しかし、好事魔多し。その後に大けがを負い、高橋が二つ目のタイトルを一宮オールスターで獲るまでには10年の月日がかかってしまった。
千葉で日本選手権を獲ってから2年後の高松宮杯で谷津田陽一(神奈川・25期)の優勝2着に入ったが、岩崎誠一(青森・31期)の失格での繰り上がりだった。快速先行は影を潜め、まくり選手にかわっていたことも原因だろう。
一宮は地元ということもあったし、仲のいい中野浩一(福岡・35期)や弟の美行(33期)藤巻昇(北海道・22期)と組み合わせは最高で地元有利の風潮が残っていたから、当然、高橋は人気になった。高橋―中野枠連単(3)(1)は550円しかつかなかった。
惜しかったのは弟の美行が3着に止まったこと。兄のあとを追って競輪界に入り、小柄だった体をウェートトレーニングで鉄の体に鍛え上げ、追い込み選手としては競り合いのきつさと差し脚の鋭さで一流選手にはなった。
もしもこのレースで2着に入っていたならば、昭和51年の前橋で藤巻昇・清志兄弟が決めた1、2の再現となったのに、惜しいことをしたものだ。
美行は残念ながら特別制覇はならなかったが昭和58年の競輪祭では中野浩一の2着にはいっている。
名古屋バンクには久保千代志(のちに故郷の北海道に転籍)もいた。その久保も56年の高松宮杯を制している。集団就職で名古屋に来た競輪界一のイケメンだが、今もスピードチャンネルでは端正な容姿をみせてくれる。久保も中野とは仲が良く、関東の記念で顔を合わせるとレース終了後には一緒に杯を酌み交わすことも多かったと聞いている。
名古屋の黒須修典の門下にはいり、厳しい練習に耐え栄冠をつかんだのは、現在のにこやかな久保とは裏腹にハングリー精神旺盛な選手生活だったように思われる。