search
とじる
トップ > 芸能ネタ > 本誌しか書けない秘話! 高倉健vs菅原文太 実録ヤクザ伝(2)

本誌しか書けない秘話! 高倉健vs菅原文太 実録ヤクザ伝(2)

 東宝で不遇だった鶴田浩二を東映に移籍させ、任侠路線で甦らせたのも俊藤の手腕だ。『博徒』『関東』『博奕打ち』シリーズなどの鶴田と、先のシリーズほか人気急上昇の健さんを中心に、『緋牡丹博徒』の藤純子、『極道』の若山富三郎と看板スターが揃い、東映任侠路線は黄金時代をむかえる。
 健さんの任侠路線を追い越せとばかりに、新たなヤクザ映画のスタイルを模索したのが、菅原文太だった。かつて健さんを「住む世界が違うよ」と評した文太だが、「任侠の高倉、実録の文太」と並び称された。

 実在の米国イタリア系マフィアを描いた『ゴッドファーザー』の影響を受けた『仁義なき戦い』というヤクザ映画が封切られ大ヒットする。戦後の混乱期から長く続いた「広島抗争」は、ヤクザ同士が血で血を洗う凄まじいものだった。まさに戦後史の闇ともいうべき世界に光を当てたのが『仁義なき戦い』だった。
 「ある日、文太は、次に出演する若山富三郎の『極道罷り通る』撮影のため京都撮影所へと向かおうと新幹線に乗った。東京駅で買い込んだ週刊誌に連載中の飯干晃一作『仁義なき戦い』に目が留まった。“こいつはおもしろい。映画のネタになる”と思った文太は、京都に着くとすぐに俊藤浩滋にその週刊誌を手渡した。紆余曲折もあるが、菅原文太という映画俳優の出世作となる『仁義なき戦い』シリーズが生まれ、実録路線が始まった」(事情通)

 菅原文太は、宮城県仙台市生まれ。父は地元紙の新聞記者だったが、早くに両親が離婚、父と義母に育てられた。
 「早稲田大学に進むが、仕送りがなくニコヨン(日雇い労働)、バーテン、インチキ神主などアルバイトに明け暮れた。その長身を生かしてファッションモデルをしたのが芸能界入りのきっかけで、モデル仲間のたむろする喫茶店で声をかけられ新東宝入り。『白線秘密地帯』の端役でデビューした」(映画プロデューサー)

 しかし、新東宝が倒産。松竹へ移籍したが、役に恵まれない。安藤昇の自伝的映画『血と掟』などに出演、安藤に気に入られ彼の東映入りとともに移籍。やはり、俊藤プロデューサーと出会うのが転機となった。
 当初は任侠映画の脇役、端役が多いが、最初の主演作品『現代やくざ・与太者の掟』で注目された。以後『現代やくざ』『関東テキヤ一家』『まむしの兄弟』など新機軸のヒットシリーズで、存在感をアピールした。

 文太をトップスターに押し上げた実録路線が始まってもなお、健さんがそれらに無縁だったという訳ではない。『仁義なき戦い』ヒットの直後に、日本一のヤクザ組織の山口組と三代目田岡一雄組長を主人公にした映画『山口組三代目』という実録映画が作られた。
 健さんは、主人公の田岡組長を演じることになる。田岡組長の役は、健さんをおいて他になかった。
 「田岡組長と健さんは、健さんが相手役を多くつとめていた美空ひばり、また妻となる江利チエミなどとともに交流があった。田岡組長の人柄を知るからこそ、若き日の姿を演じられ、そのかっこ良さはこの上なくビシッと決まっていた。当然、『山口組三代目』も公開と同時に空前のヒットを記録した」(業界関係者)

 映画化の途中、田岡三代目が京都の東映撮影所を訪問したことがある。健さんも出迎えたが、その間、びしっと威儀を正して微動だにしなかった。帰途、田岡三代目は「高倉健がワシの役をやってくれて本当に良かった。あいつしかいない」と呟いていたという。

芸能ネタ→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

芸能ネタ→

もっと見る→

注目タグ