35年に入ると、安保条約をめぐって国内は騒然となった。社会党以下野党はもとより反対、一方で猛反対する「全学連」の学生デモと機動隊が衝突、学生は国会に乱入し、東大生の樺美智子が犠牲になるなど大揺れとなった。当時の政治部記者のこんな証言が残っている。
「田中はその後の日本経済のためにも、何としても条約を通さなければというのが信念だった。5月19日から20日にかけての衆院本会議の強行採決では、『議長を守れッ』と自民党の若手議員に取り囲んで守るように指示を出すなど、何とも目立っていた。3年後の昭和38年に、議員会館と国会は議員の行き来ができる地下道で結ばれるようになるが、これも会館と国会を結ぶそれまでの陸橋がデモ隊に遮断された格好になっていたことから、田中がこうしたことでは政治が停滞するとしてアイデアを出した結果だったんです」
その後、この日米新安保条約は何とか自然承認されて岸首相の辞任となるのだが、田中は副幹事長の一方で、どうしたものか売春対策審議会の委員も務めていた。時に、田中は愛人でもある秘書だった佐藤昭子に、冗談めかしてこうボヤいた。
「オレはあの売春防止法、反対の方なんだ。大体、あんなものを通したから学生、若者が欲求不満となってデモに出て暴走するんだ」
岸の退陣を待って、7月、池田(勇人)内閣が成立した。その後の12月の第2次内閣下で田中は自民党の水資源開発特別委員長となった。水資源は各省の利害が複雑に絡み、ここでも田中の馬力ぶりは緩むことはなかった。田中委員長の采配を気に入らぬ重政誠之という時の「農村族」の大ボスと、つかみかからんばかりに激しくやりあったことがあった。しかし、このとき、早くもその数日後に田中の巧まざるの人心収攬の妙が出た。心情をぶちまけた重政へ“わび状”を出したのであった。
巻き紙の和紙に墨痕鮮やか、「先輩に対する暴言、失礼をおわびさせていただきたい。ただ、これもこの国の水資源の必要性を感じたがためのものであったとご理解いただければ」と。ウルサ型で鳴っていた重政はこの“わび状”に感心、以後、田中とは胸襟を開く間柄となったのだった。ここでは田中の粘着質でない性格、「目配り」の確かさが光ったということでもあった。粘着質のリーダーは同僚、部下が敬遠しがちとなり、ともすれば大成への道を閉ざすことにつながりかねないとの教訓でもある。
こうした「田中あり」を存分に見せつけた男は、36年7月、第2次池田内閣の成立を機に晴れて党3役の一角、自民党政調会長になった。田中にとっては、このポストに就いたことでやがての天下取りへ視野が開け、ついに「王道」としての第一歩を踏み出すことができたということであった。天下取りへの「王道」とは、どういうことだったのか。ここから先は、何としても裏方、寄り道はしないぞということだった。
これまで田中には何度か当時の党7役だった国対委員長や組織委員長への就任要請が来ていたが、そのたびに断わりを入れていた。田中は何とかして党3役入りを熱望、とりわけまずは国家予算の編成に党側からの影響力を持つ政調会長をやり、その後、大蔵大臣などの重要閣僚を務め、さらに総理・総裁に不可欠な幹事長ポストを経るという「絵」が描かれていたということだった。当時は昨今と違い、天下取りには幹事長ポストを踏むことが必須条件でもあったのだ。後年、これを振り返れば、政調会長をまずやり、その後、大蔵大臣や幹事長を経てという天下取りへの「王道」戦略は、見事に実現されることになるのである。
この裏では、田中の絶対の自信、そのためには万難を拝して周囲の強い支持を得るという覚悟も窺われた。巧み巧まざるの「情と利」による人心収攬の妙も発揮、強大な支持基盤をつくるぞという覚悟であった。それも、後年、見事に実行されたのである。
と同時に、この政調会長ポストでの身の引き締まりぶりも、それまでとは一変した。「二人三脚」で歩んできた佐藤昭子は、それまで党3役の歴史の中で女性秘書はたった一人だけだったが、党本部の政調会長室詰めの二人目の女性秘書となった。この頃には、それまで「佐藤さん」と呼ばれていたのが、「ママ」と呼ばれるようになっていたのだった。
田中が実力者の階段を上がるにつれ実力秘書への見方、佐藤への周囲の目も変わったということである。
しかし、田中は佐藤にこうクギを刺すのも忘れなかった。
「いいか。女が出しゃばるとたたかれる。気を付けてくれ」
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。