「どれぐらい声が出るか聞いてやれ、というお客様もいて、お呼びは去年よりも多かったですね」
−−ガンとわかったのは?
「去年の10月、国立文楽劇場の独演会のフィナーレ近くで一番盛り上がった時に、喉の辺りに激痛が下から上に突き抜けたんです。僕は9歳の時から河内音頭を演ってますが、そんな経験は初めてやったので、歌いながらびっくりしましたよ。そして、喉の辺になんかこう、魚の骨が刺さったような違和感を感じるようになったんです。それで、かかりつけのドクターに診てもらったんですが、直前の人間ドックで異常もなかったんで、『大丈夫でしょう』と言われました」
−−それでも、違和感がなくならなかった。
「喉に何か詰まるというのとも違うんですね。まあ万が一ということもあるんで軽い気持ちで再検査してもらったら、甲状腺にガンが見つかったんです。その後、甲状腺の専門のドクターに診てもらったら悪性で、しかも転移も見られるって言うんですわ。こらえらいことになったなと」
−−ガン(甲状腺乳頭ガン)を宣告されたときの心境は。
「河内音頭一筋でやってきて、生涯現役のつもりでいたのに、俺も49(当時)で終わりかな、と。治療法を聞くと、『ガンが甲状腺を突き抜けて、気管に巻き付いている珍しいケースだとか。こうなると気管を切開して、ガンを取るしかない。その際、声帯を傷つけるので、もう声は出なくなります。(治療法は)100%これしかありません』とのことでした。
甲状腺ガンはね、自覚症状がほとんどないそうです。だから転移があっても自分ではわかりにくい。そのうえ放射線治療が難しい。ええことが一つもありません。ただ『進行は遅い。今すぐにも、ということはない』と言われたので、少し落ち着きました。それなら2013年の夏を一生懸命やって最後を飾り、その後に手術をしてスッパリ引退しよう…。そこまで考えたんです」
−−でも、引退せずにすみました。
「それからというもの、声帯を傷つけんとガンだけ取る、そんな治療ができるドクターを探しまわったんです。そしたらロシアのホームページで、そういう治療のできる先生を見つけたんです。あっちはチェルノブイリがあった関係で、放射線関連のデータがまとまっているんですね。しかも、そのドクターは日本人で、それも大阪にいてはることがわかった時にはビックリしました」
−−まさに灯台下暗しですね。
「それで、さっそく飛んで行きましたよ。行ってみてもうひとつびっくりしたのが、その先生がいる病院がね、僕の生まれた病院やったんです。まさか自分の生まれた病院にそんな名医がいてるとは…。しかもそこで僕は仮死状態で生まれ、この病院のおかげでなんとか命がつながった。その命の恩人の病院に、今度もまた命を預ける。命の縁とでも言うんでしょうか、不思議な感じがしましたね」
−−浪曲にでも出てきそうな話ですね。
「ホンマそうですよ。それでその先生が『声帯を傷めずに治せる可能性は1%。でも、奇跡が起こればその1%が100%になる』と言って下さいました。その言葉には勇気づけられました。普段は1%なんか気にもせん数字でしょ? でも、あの時だけは1%がすごく重いもんに感じて、ここは一つ奇跡に賭けてみようという気になったんです」
−−手術はどんな具合でしたか?
「去年の12月で、それがまた凄かった。気管に3周半ほど巻き付いて声帯を圧迫しているガンを削るようにして取っていくわけですが、メスを入れたら患部がパカッと割れて、ガンがきれいに離れたというんです。先生は『奇跡が起こりました』と仰ったんです。先生には、どこにメスを入れたらええのかが、ちゃんとわかってはったんでしょうな。でも、これは奇跡というよりも一つの芸。名人芸ですわ。その後、ちゃんと声が出たときは本当に嬉しかったですね。力を入れんでも高い声も低い声も無理なく出る。声が出ることのありがたさを、あの時ほど感じたことはありません。さっきも言いましたけど、諦めんでよかった…。この病気だけは、諦めたら終わりです。僕のように、1%の可能性が100%になることだってあるんですから」