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歌謡(うた)のマドンナ 第3回 山口ひろみ デビューに隠された亡き母への想いとは

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提供:週刊実話

 身長147センチの小柄な体から繰り出す、パワフルかつ繊細な歌声。大阪生まれの山口ひろみは、北島三郎の事務所に所属する“北島ファミリー”の末娘として愛されている。歌もさることながら臨機応変なステージトークの上手さも絶品だ。
 「伯母と母は『加茂川かもめ・ちどり』という姉妹の歌謡漫才コンビでした。私が生まれる前にやめていたので、舞台に立っている母を見たことはないんです。うちは母子家庭で一人っ子だったんですけど、近所に住んでいる伯母といつも一緒で、3人で歌いながら銭湯に行ったり、明るい毎日でしたね。母は北島三郎先生や美空ひばりさんのファンで、その影響で私も歌が大好きに。ただ、歌の大会に出場したりはしていましたけど、あくまで趣味でした」

 高校卒業後すぐに働くつもりだったが、高校の先生の勧めで立命館大学を一芸入試で受験し合格。国家公務員になれればよかったという。しかし大学の仲間と夢を語り合ううちに、歌手への夢が膨らんだ。
 「アマチュアの私を応援してくれた人が北島三郎先生と親しい方で、ある時『サブちゃんに会わせてあげるよ』と、梅田コマ劇場で1カ月公演をやっているところへ連れて行ってくれたんです」

 憧れの北島三郎と対面。絶好のチャンスに、弟子入りを願い出るが…。
 「私の家庭の事情も理解してくださった上で、『歌の世界は厳しいのだから、やめた方がいい。ただ、大学を卒業して、それでも気持ちが変わっていなかったらまたおいで』と、その時は断られたんです」

 ところが、卒業まで素直に待つ山口ではなかった。2年でほぼすべての単位を取得し上京。八王子の北島邸に住み込み、20歳で内弟子生活が始まった。
 「弟子といっても男性と女性では仕事内容が異なっていて…。私は、奥様に付き添っての食事の支度、お客様の対応、掃除、洗濯など。先生のお宅は36部屋ありますし、他の内弟子や北島先生の娘さんたちもいて、とにかく人数が多い。今までと違う生活に、アッという間に1日がすぎていきました。中野区にある事務所の手伝いもしていましたね」

 間もなく、北島三郎の真の厳しさを身をもって知ることになる。
 「先生がピアノで曲作りする時、テープレコーダーの録音ボタンを押すのが弟子の仕事。『どっちがいいか、ちょっと歌ってみてくれ』と言われて歌わせていただけるのが数少ないレッスンの機会なんです。できたメロディーを録音係の私が歌わせてもらうんですが、先生がイメージしているようにはすぐには歌えないんですね。すると『何で歌えないんだ! もう1回!』と、できるまで何度でも歌い、時には明け方までレッスンは続きます。そのうちに私は、できない自分が悔しくて涙ポロポロ」

 その時に北島に言われた言葉が、今も支えになっているという。
 「『なんで泣くんだ? お前に泣いている時間なんてあるのか? できるまで頑張ります、もう1回お願いします、だろう!』と。当時は“この鬼ィ!”と思ったものですけど(笑)、齢を重ねるごとにその言葉の重みが分かるようになってきました。“どうしたらできるんだろう?”と考え、何事もすぐに無理だと思わず、決してあきらめないと思う自分になれました」

 入門して3年がすぎた頃、大阪に残してきた母の胃ガンが発覚。手術したものの、手遅れだったという。
 「私が近くにいてあげられなかったからだと、自分を責めましたね…。できるだけ大阪に帰って母に付き添いつつ、最後は東京のホスピスに移して、看取ることができました。歌手になってヒット曲を出して、母のために家を建てるのが目標だったのに。もう大阪に帰ろうと思いました。でもその矢先、今度は母と同じく大阪で暮らしていた伯母が体調を崩してしまうんです。認知症の兆しもあり、訪問販売にだまされて借金を作ってしまって…。現実問題、借金返済のためにはお金が必要でしたので、『もう歌手にはならなくてもよいですので…』とお願いして、げ bのまま事務所に置いてもらい、働かせていただいたんです。伯母にも家族がいなかったし、何より、母にできなかった分まで何か役に立ちたいとの気持ちが強かったので、それで十分幸せでした」

 3年後の'02年、周りの後押しもあり、『いぶし銀』で念願のデビュー。しかし伯母の借金返済と入居施設の費用捻出のため、さらに苦しい生活が続いた。
 「デビュー後は一人暮らししていたんですけど、節約するため、食べるのは納豆ばかり。歌の仕事先でもらえるお弁当がどんなにありがたかったか。そんな伯母も'07年に亡くなりました。だから私、喪主を2回やってるんです。生きていく支えがなくなって、あの時期が一番つらかったですね。『これからは自分のために生きていいんだよ』と言われても、何をやればいいのか全く分からなかった」

 そんな彼女を支えたのは、歌への使命感だった。
 「一人ぼっちになって、自分はいろんな方に守られて生きているんだということを、なおさら強く実感するようになりました。そして、私の歌で元気になってくれる人がいる。音楽の素晴らしさをあらためて感じて、ならば私にとって歌っていくことが使命だと思えるようになったんです」

 入門して約20年。師匠・北島三郎への尊敬と感謝の気持ちは増すばかりだ。
 「いまだに北島先生とご一緒すると『すごい! 北島三郎さんがいらっしゃる!』という気持ちになります。それは全然変わらないですね(笑)。4月に、15周年記念曲として、北島先生が作詞・作曲してくださった新曲『女の幸せ』を発売します。先生もちょうど芸道55周年。この新曲をヒットさせて、先生の節目をお祝いできるような結果を残したいですね」

やまぐちひろみ=1975年6月2日大阪市生まれ。立命館大学在学中に北島三郎門下に入り、約6年の内弟子生活を送った後、2002年『いぶし銀』でデビュー。これまでに19枚のシングルの他、同じ北島ファミリーの和田青児や大江裕とのデュエット曲も発売。趣味はサッカー観戦。好きな言葉は「笑って暮らすも一生、泣いて暮らすも一生」。5月にはデビュー15周年を迎える。2016年4月20日に、師匠・北島三郎作詞・作曲による15周年記念曲『女の幸せ』を発売。ミュージックビデオを収録したDVD付シングルも同時発売。

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