日本にはいまだ体罰容認派や賛成派の人が多くいるようだ。そういった人たちは
「自分もそうやって育てられ強くなった」
「指導の一環として必要」
「いまの学校の先生は殴れないのでかわいそうだ」
「体罰は日本の伝統である」
などと言うがはたしてそうなのだろうか?
学校における体罰禁止の歴史は、明治12(1879)年の教育令で
「すべての学校においては生徒に体罰(殴ちあるいは縛するの類)を加うべからず」
と規定され、世界的にもかなり早い時期に体罰禁止が明文化されていた。それでも手を挙げてしまう教師はいたようで、すると親は学校に怒鳴り込み、警察に訴えて新聞沙汰になることがときどきあった。
昭和9年の新聞記事によると、北海道の小学校教師が掃除をサボった児童の顔や頭を叩いた。子どもは泣きながら家に帰ると、大事な子どもを叩かれた父親は激怒。校長に謝罪させ、警察は捜査を開始とある。
重松一義の『少年懲戒教育史』によると、江戸時代の藩学校の体罰は「武士の体面を保たたせるため極力体罰を避け」とある。
武士教育において体罰は極力避けるべきものだったのだ。江戸時代の精神的支柱とされた儒学者の山鹿素行も体罰に否定的で、弟子の大道寺友山は妻子に暴力をふるうのは「臆病武士」と書き残している。
武士だけではなく、庶民も子供を叩かなかったことが、戦国時代や幕末、明治初期に日本にやって来た外国人が記録している。
日本の教育に体罰が入ってきたのは、明治になりキリスト教教育が入ってからのようだ。旧約聖書の箴言13章に
「鞭を加えない者はその子を憎むのである。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」
と書かれているように、体罰を奨励しているような箇所がいくつかある。「教鞭」とは教えることだが、教えに鞭の文字をつけられている。これは明治になってから作られた言葉で、明らかにキリスト教の影響だ。
運動部の体罰は、軍隊の影響で新兵いじめやしごきの模倣であるとする学者も多い。軍隊でいじめやしごきを経験した人が、部活の監督やコーチ、教師になって自分が経験したことを伝えていく。
そこにはかつての武士道教育はなく、兵士の命を赤紙一枚の価値しかないからと体罰やリンチで服従させようとする伝統が、いまだ学校や運動部に残っているのかもしれない。
プロフィール
巨椋修(おぐらおさむ)
作家、漫画家。22歳で漫画家デビュー、35歳で作家デビュー、42歳で映画監督。社会問題、歴史、宗教、政治、経済についての執筆が多い。
2004年、富山大学講師。 2008~2009年、JR東海新幹線女性運転士・車掌の護身術講師。陽明門護身拳法5段。