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本好きのリビドー

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提供:週刊実話

 悦楽の1冊『帰ってきたビルマのゼロ・ファイター』井本勝幸/荒木愛子 集広舎 1852円(本体価格)

★日本兵を還した男の記録

 B級作品と軽んじられがちなチャック・ノリス主演の『地獄のヒーロー』(’84)は、原題を“MISSING IN ACTION”という。戦闘中の行方不明者を指す専門用語で、タイトル通り主人公がベトナム戦争の未帰還兵を救出に向かう物語だったが、翻ってわが国の現状はどうか。生存する拉致被害者はおろか、実のところ、先の大戦で海外各地に散った英霊の遺骨の約4割以上が、いまだ放置状態のままと聞けば遺族でなくとも俯くしかない。

 大戦末期の昭和19年に強行されたインパール作戦では、英軍に敗れ退却する経路がのちに“白骨街道”と呼ばれる悲惨の極みだった。この戦いで落命した多くの日本兵が瞑る地ミャンマーで、黙々と遺骨の発掘と身元の特定、そして国に働きかけての帰国運動を続けているのが井本勝幸氏だ。

 遺骨の埋まる旧日本軍跡地に建つミャンマー国軍敷地内には、無論、政府の許可なくば入れない。複数の少数民族が構成する武装勢力との内戦もうち続く中、個々の指導者を口説き落として連帯させ、遂には政府との正式な和平交渉の窓口までこじ開ける…こんな大事がなぜ一日本人僧侶である井本氏に成し遂げられたのか。その上、何より必要なのは地場産業だと現地に農学校を設立し、地元の若者に雇用を創り出す姿には頭を垂れるばかり。

 右記のどれか一つでも試みるだけで無数の妨害や困難が絶望的に立ちはだかりそうなものを、すべて点が線を結ぶように実現してゆく氏のごとき快男児が、まさか今の日本にいようとは。

 九州朝日放送の荒木氏による同行レポートも含め、読んでただ胸が熱くなる。梶原一騎の劇画じゃないが、思わずつぶやきたい。――「この男は実在する!!!」と。
(居島一平/芸人)

【昇天の1冊】

 起業の失敗や破産を乗り越え個人投資家として成功し、現在の純資産70億円。与沢翼、37歳。

 読者諸兄も名前を聞いたことはあるだろう。「秒速で、1億円を稼ぐ男」と話題となった平成時代、挫折を経験し、そこから復活を果たした男である。

 その与沢氏が、カネとの「向き合い方」「使い方」など、経験から得たマネー論をまとめたのが『お金の真理』(宝島社/1300円+税)だ。

 まず、「お金には魔力がある」という。欲望が人を変える。そこで使途を誤る。「賃貸やローンでタワマンに住むのは愚の骨頂」と、一例を挙げる。

 次に「年収」に目を向けてはならないこと、大切なのは「純資産」をどれだけ所有しているかだと解説。「お金は備蓄、備蓄はパワー」「必要十分で満足できる人が強い」「現金一括で買えないものは分相応」と続く。つまり、欲をかきすぎるとお金の魔力に取り込まれるということだろう。

 他にも魔の手はある。「人脈はお金を奪っていく負債となる」「儲けさせるために近づいてくれる人などこの世に一人もいない」。うまい話には乗らない堅実さが肝要ということ。

 カネを得ることによって人は麻痺し、正しい感覚を見失う。見失うと破綻のリスクが増える。一方で、備蓄は大切だが「節約バカになってはいけない」など、読むにつれてカネとの付き合い方は本当に難しいと考えさせられる。

 儲かる処方箋は多くあるが、「付き合い方」を解いた意義深い1冊だ。

(小林明/編集プロダクション『ディラナダチ』代表)

【話題の1冊】著者インタビュー 小佐野景浩
永遠の最強王者ジャンボ鶴田 ワニブックス 1,800円(本体価格)

★“最強”だが“最高”になれなかったレスラー

――ジャンボ鶴田の人間像に迫っていると話題です。書籍化しようとしたきっかけはなんですか?
小佐野 私は’84年5月から’90年7月まで『週刊ゴング』というプロレス専門誌の全日本プロレス担当記者でしたが、エースのジャンボ鶴田は記事にしづらい選手でした。気さくで取材にも協力的なのですが、プロレスへの本気を見せない。ファンは涼しい顔をして試合をしている鶴田に、共感しにくかったと思います。当時の私には、彼の本質に迫ることも、その魅力を引き出すこともできなかったという無念の気持ちがありました。「いつかはジャンボ鶴田の実像を解き明かしたい」と思っていたところに、書籍化の依頼があったわけです。

――鶴田はアマレス選手としても活躍しています。同時代には長州力や谷津嘉章がいましたが、鶴田の実力はどの程度だったのですか?
小佐野 鶴田と同学年で中大レスリング部主将だった鎌田誠氏、鶴田が目標としていた磯貝頼秀氏は、共に「同じ時代に同じ階級で試合をしたら谷津、長州、鶴田の順だろう」と言っていたので、その通りでしょう。ただ、中大レスリング部に入部後、たった3年足らずでミュンヘン五輪に出場できたというのは、もちろん才能もそうですが、努力と熱意のたまものだと思います。

――師匠であるジャイアント馬場は、鶴田をアントニオ猪木のように育てたかったといいますが、実際はどうだったのですか?
小佐野 馬場はNWAスタイルと呼ばれる米国のセオリー通りのプロレスを学ばせるために、鶴田をファンクスのもとに送ったわけです。ただ何年かして、試合をそつなくこなすものの、表現力のなさに「猪木に学べ」というようなことを本人に言ったんだと思います。そんな部分が「最強のプロレスラーだが最高のプロレスラーではなかった」と言われるゆえんだと思います。

――鶴田の一番印象に残っている試合を教えてください。
小佐野 ’89年6月5日、日本武道館における天龍源一郎戦です。天龍との鶴龍対決は、プロレスラーとしての技量だけでなく、お互い、人生観までぶつけ合うような大勝負で、それがファンの魂を揺さぶったんだと思います。ジャンボ鶴田は常に未来を見据えた人生設計をしていたにもかかわらず、B型肝炎でリングを降りることになってしまいました。ドナーを探しながらも明日を見ていた生きざまは、「普通の人」ではなく、まさに戦い抜くプロレスラーだったと思います。
(聞き手/程原ケン)

小佐野景浩(おさの・かげひろ)
1961年9月5日、神奈川県横浜市生まれ。幼少期からプロレスに興味を持ち、日本スポーツ出版社に入社。’94年に『週刊ゴング』の編集長に就任。退社後はフリーランスの立場で雑誌、新聞、携帯サイトで執筆。コメンテーターとしてテレビでも活躍している。

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