村田は2007年の大学生社会人ドラフトで巨人に1位指名されたが、10年には戦力外となり、その後は渡米して孤軍奮闘していた。その努力が実り、今季は3Aで最多勝のタイトルを獲得。6月にはメジャーのマウンドも経験し、村田も「これからが勝負」と意気込んでいたはずだが、解雇が通告されたのだ。
「3Aで投手タイトルを獲得しても、それがメジャー昇格の約束手形にはならないのです。スカウトがメジャーで通用しないと思えば、たとえ最多勝投手でも容赦なく解雇されます。それがメジャーのやり方です」(米国人ライター)
村田は6月28日、ダブルヘッダーの第2試合に先発登板し、メジャーデビューを果たした。ダブルヘッダーには“試合出場の登録人数を1人増やせる”というルールがあり、当時3Aで絶好調だった村田が緊急昇格した。その際には、巨人をクビになった“雑草魂2世”に、元同僚たちもエールを送っていたのだが…。
「30歳という年齢も加味され、そういう決断になったんだと思います」(同)
その村田には、すでに巨人が「帰って来い」と連絡を入れたという情報もある。今季の巨人は、菅野と外国人以外の先発投手が機能しなかったと言っていい。米マイナーで鍛え直された村田が帰還すれば、新体制の巨人はさらに活気づくはずだ。だが、案の上というべきか、村田は帰還に二の足を踏んでいるという。
「今年は最多勝を獲得し、また、メジャーマウンドも経験したので、本人は前向きな気持ちだったはず。気持ちの整理ができていなのでは」(同)
そもそも、村田は巨人に対していい思い出がないのかもしれない。村田は上原浩治と同じ大阪体育大学の出身で、ドラフト当時は上原の後継者と見られていた。本人も「上原さんに弟子入りしたい」とコメントしていたが、新人自主トレを見た上原が村田に言い放った第一声は、「この世界は実力がなければ、たとえドラフト1位でもすぐにクビになるぞ」という、手厳しいものだった。あくまでも、この時点での評価だが、上原は遠回しに「村田は通用しない」と見ていたという。
「巨人のドラフト1位で単独取材の申し込みがなかったのは村田だけ。1位指名と言っても、3度目の入札でようやく獲得できた投手であり、本当なら、3位以下の評価だった」(当時を知る関係者)
ルーキーイヤーは二軍でも勝ち星が挙げられなかった。結局、上原の苦言は現実となる。だが、村田はアメリカでドン底から這い上がってきた。何のツテもなく、マイナーで野球を続ける苦労は経験した者にしか分からない。
「過去、マイナーで最多勝を獲得してもメジャー昇格できずに消えていった投手はたくさんいます。マイナー契約なら、他の米球団からのオファーがあるかもしれないが、『通用しない』と見るインディアンスの判断を覆すのは至難の業。当時の巨人を見返すことを考えたほうがいい」(同)
いまなら、NPBで通用するはずだ。夢を追うのか、それとも現実を取るのか、村田は野球人生の岐路に立たされている。