玉熊がボクシングを始めたのは青森商業入学時のこと。体操部入部を決めていたが、部室に誰もいなかったことでボクシング部に勧誘されるがままに入部したという。思い入れのなかったボクシングだったが、玉熊はメキメキと頭角を現し、2年生で県モスキート級王者に、3年時にはインターハイ・ライトフライ級準優勝を果たす。その後はスポーツ推薦で法政大に進学しボクシングを続けるが同級生の不祥事で休部となったために、中退し国際ジムに入門。83年5月、本名・玉熊幸人としてデビュー。東日本新人王、全日本新人王を獲得し、レパード玉熊のリングネームに改名した。着実に実力をつけ、87年2月、20戦目にして日本フライ級王者を獲得し4度防衛した。89年3月の世界初挑戦では惜しくも微妙な判定負けしたが、玉熊の勝ちを支持する関係者、ファンも多く評価を高めた。満を持して臨んだ二度目の世界挑戦で90年7月、ついに世界フライ級王座を手にした。
一度もダウン経験のない王者・李烈雨(韓国)から2度のダウンを奪いレフェリーストップで文句なしのTKO勝ちだった。91年3月、2度目の防衛戦で判定負けを喫した後、左目網膜はく離が判明し、引退を余儀なくされた。
引退後は国際ジムでWBA世界スーパーフライ級王者・セレス小林らを育て、その後、95年11月に都心オフィス街の九段下に自らのジムをオープンさせた。地下にある狭いジムではあるが、会長の人柄を慕って、幅広い練習生が入門してくる。国会議員から高級イタリアンのシェフまで多彩な顔ぶれで、3月末には現役大臣の原口一博総務相がお忍びトレに顔を出すなど玉熊の人望の厚さを象徴する出来事も。指導力も定評がある玉熊だけに、国立大卒選手初の日本王者(ウェルター級・小林秀一)を輩出するなどプロ選手育成面でも力を発揮している。
ジムの練習生は「このジムは会長を中心に温かい仲間的な雰囲気が漂い、心身ともに成長できます。会長は偉ぶらないで、自らミットを持ってくれますし、読書家で知識も豊富。ボクサーとしても人間としても尊敬できる方です」と話す。ジム開設から15年、焦らず一人一人を大事に指導する玉熊が世界王者を育てる日も遠くはないかもしれない。