■甲子園の土を持ち帰った第一号は?
出場校が主に敗退時に甲子園の土を持って帰る習慣についてだが、その始まりには諸説ある。昭和23年、小倉中等学校(現・小倉高/福岡県)のエース、福嶋一雄氏が準々決勝で敗れた後、ひと握りの土をポケットに入れた。それが第一号だとされるが、それに意義を唱える“大御所”がいる。
昭和12年夏の決勝戦を戦った後、熊本工業高校の川上哲治元巨人軍監督(故人)が袋に入れて持ち帰ったそうだ。川上哲治記念球場、熊本工にはそれらしき品物は残されていないが、後年、故人は「母校のマウンドに撒いた」と話していた。
また、甲子園の土は島根県のグラウンドにも存在している。甲子園球場は定期的に土の入れ替え作業が行われており、のちに衆議院議員も務める岩國哲人氏が出雲市長だったころ、『出雲ドーム』が着工された。大阪府出身の氏は、その着工中に甲子園球場の土を入れ替えがあることを知り、使い古された土をそのまま譲り受けたのだ。島根県庁にも確認したが、出雲ドームのマウンドは甲子園の土で造られているという。
■「整列、礼」は高校野球が発案した儀式
明治44年8月、東京朝日新聞は「野球とその害毒」なる連載を22回掲載した。その中にこのような一文がある。
〈〜省略〜野球商売人になるということは、学生としては目的の変換で学会の敗亡者である。父兄の意に添わぬものである〉
裏を返せば、当時の学生たちが、それだ野球に熱中していた証とも言える。また、中沢良夫高野連二代目会長と佐伯達夫同三代目会長は、昭和40年、高校野球の発展に長年尽くした功績が認められ、朝日賞に選ばれた。そのとき、中沢会長は第一回大会を振り返って、こう話している。
「〜省略〜あのころ、野球は“毬投げ”と蔑まれ、一般には不良がやるものと考えられていた。そこで私は、そんなに悪いものなら、批判した朝日新聞が先頭に立ってやり方を直し、野球を教育の場にしたら良いだろうと…」
夏の甲子園大会の前身、全国中等学校野球大会は教育行事として始まった。見る者にも“教育であること”を伝えるため、野球を発祥したアメリカにもない試合前の「整列、礼」を取り入れられた。それが今日も続いているのである。
■何故、高校野球は戦後直後の昭和21年に復活できたのか?
昭和21年2月25日、朝日新聞大阪本社会議室で、現在の高野連の前身となる全国中等学校野球連盟を設立する総会が開かれた。その後、次のような社告が打たれた。
〈朝日新聞社主催全国中等学校野球大会は、昭和十七年第二十七回大会予選半ばで中止されたまま今日に至りましたが、全国各地から寄せられる同大会復活への力強き要望にこたえて、社会情勢の許す限り、今夏を期し復活開催することに決定しました。明朗健全たる国家の建設は、スポーツによってつちかわれるフェアプレーの精神、すなわちスポーツマンシップに…〉
昭和23年、学制改革により、中等学校は『高等学校』に改編された。それを受け、全国中等学校野球連盟は全国高等学校野球連盟(高野連)と改称され、今日に至っている。
昭和24年、全国高等学校体育連盟(高体連)が結成される。文部省(当時)は高野連も高体連に加えようとしたが、高野連は日本学生野球協会への加盟を選択した。同協会はGHQ教育部のJ・W・ノーヴィル少佐などが支援した。GHQは戦後の民主主義を繁栄させるため、独自の道を歩んできたのである。
高校野球とは近代日本の文化でもあるようだ。(スポーツライター・美山和也)