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【幻の兵器】日本海軍が開発した最初で最後の対潜哨戒機「東海」

 日本海軍が世界に先駆けて実用化した兵器は意外に多いが、対潜哨戒機をそのひとつに挙げるマニアは少なくない。通説では、米潜水艦による被害が増加し、船団護衛の切り札として開発されたものの、量産時期が遅かったために活躍できなかったとされている。また、日本機には珍しく優れた電子装備を有し、哨戒から急降下爆撃までこなす高性能機であるかのように解説している資料もある。

 日本海軍は1942年10月に渡辺鉄工所(後の九州飛行機)へ「十七試哨戒機」の開発を正式に試作発注したが、これが後の東海である。海軍は特に急降下爆撃能力が必須であること、巡航速力で10時間以上の航続能力を持たせること、哨戒時の速力を可能な限り低く押さえることを要求したが、最大速度は指定されなかったようだ。その他、対潜哨戒以外にも対空警戒や偵察も主要任務に含み、艦上機や水上機としても転用可能であるとされていた。

 野尻康三技師を主務者とする開発陣はさっそく作業を開始し、翌43年には原型機の製作に着手し、同年12月には初号機が完成している。飛行試験も比較的順調に進み、尾翼の位置と面積を修正した他は大きな改修点もなかったとされているが、それでも生産が始まったのは初号機完成から3か月以上経過した1944年4月だった。正式採用後は東海11型と呼ばれ、後に練習機型が計画されたように操縦特性も素直で、安定性も良好だった。また、海軍が求めた急降下性能も良好で、急降下制動板を兼ねた独特のフラップの働きにより、低速度での巡航能力が非常に優れていた他、着陸距離も短かった。

 東海は双発戦闘機「月光」よりもやや小振りで、艦上攻撃機「天山」よりはやや大きい程度の機体だった。良好な離着陸性能とあいまって、格納庫をはじめとする支援施設の貧弱な前線飛行場でも運用が可能だった。東海には欠点もなくはなかったが、全般的によくまとまった機体であり、運用者側からは概ね好意的に評価されたようだ。

 戦時中も含め、日本機は初飛行から生産開始まで約1年ほど経過する場合が多く、東海の場合もそれほど時間がかかったとは言いがたい。開発を担当した九州飛行機にとっては最初の大型機であり、他社開発機の転換生産も零式三座水偵をはじめとした単発機であった事を考えると、むしろ努力を評価すべきとさえ言える。だが、ほぼ通例通りということは、うがった見方をするなら「特に急がなかった」と言えなくもない。

 ともあれ、生産開始まではもたついたが、その後のペースは早く1944年には佐伯海軍航空隊に配備された機体が九州南西と五島列島西方で実戦に参加している。その後の配備情況や戦果については不明な点が多く、また残念ながら戦果についても極めて情報に乏しい。現段階では、日本軍と連合軍双方の資料によって確認された戦果が無いというのが実情だ。

 ただ、東海は三式一号探知機と呼ばれる航空機用磁気探知機を装備しており、当時は日本海軍のみが実用化していた、世界各国の海軍に先駆ける画期的な発明であった(開発に着手していた国はある)。磁気探知機はまず九六陸攻に装備されたが、東海が量産されはじめるとこちらへ優先的に支給された。

 東海は日本海軍が開発した最初で最後の対潜哨戒機であり、また第二次世界大戦においては諸外国に例をみない機体でもあるため、その独自性を評価する専門家は少なくない。しかし、日本海軍が対潜哨戒機の開発を試みたのは東海が最初ではなく、対米開戦前に開発着手した十三試小型飛行艇(二式練習飛行艇)は、沿岸や近距離の哨戒、船団護衛と並んで対潜哨戒もこなす機体を目指していた。というのも、日本海軍は敵潜水艦が軍港を始めとする根拠地を偵察することを恐れており、対潜哨戒能力を備えた拠点防備用の汎用哨戒機を欲していたのである。

 しかし、磁気探知機や電探を装備し、爆撃能力を持つ機体が用意できるなら、わざわざ専用機を開発する必要もなかったのも確かである。事実、陸軍は一式双発高等練習機を哨戒機へ転用しているが、航続能力さえ強化できればこの程度の機体でも十分であり、諸外国においては輸送機から発展した洋上哨戒機が対潜作戦もこなしていた。専用機の開発を過ぎた贅沢とみるのは言い過ぎかもしれないが、旧式機や二線機の転用による「電探装備の哨戒機を早期に整備」できなかった事に対して、後世の人間がもう少し突っ込んだ検討をした方が良いのかもしれない。

(隔週日曜日に掲載)

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