さらに、芯(しん)を最大限まで繰り出すと、自動的に外れて取れるように工夫を凝らした。ちょうどよい長さの芯が先端から出るようにするのが最も苦労したところで、何度も試作を重ねた。そしてついにある日、内部につけるみぞの彫り方を変えることを思いつく。そうすることで、徳次が理想とする芯の出し方が出来るようになった。
こうして大正4(1915)年春、世界中のどこにもない早川式金属繰出鉛筆が完成した。外装のニッケル部分には模様を入れて、クリップも付けるつもりだ。この辺の加工は万年筆で体験済みだ。機械を使って大量生産することも当然、視野に入れていた。特許取得の申請もした。
徳次は出来上がった早川式金属繰出鉛筆を、兄・政治に見せた。政治は渡された繰出鉛筆を手に取って、芯を出したり戻したり、実際に紙に文字や線を書いてみたり、分解したりしていたが、やがて「これは売れる」と言った。仕事でさまざまな文具に接している政治の言葉は心強いものだったが、徳次にも自信があった。そこで徳次は政治に切り出した。
「この繰出鉛筆の製造・販売を事業化したいと考えています。製造はあっしがやりますから、販売を兄さんがやってもらえないでしょうか」
徳次はいつか兄と一緒に“早川兄弟商会”をつくりたいと願っていた。今がその時だと思えた。政治は徳次の開発した繰出鉛筆を見つめていたが、顔を上げると「よし、徳次、一緒にやろう」と力強く言った。