だが、自分の視点で調査を進めていくうちに、伝えられるほどの莫大な額ではないにしても、幕府の金の一部が隠匿されたのは事実とみてもよいと考えるようになった。最大の功績といえるのが“生き証人”を探し当てたことだ。
江戸城明け渡しの際に立ち会った幕府側の人間が、昭和の初めまで何人かは生存していた。1人は江戸城内の御蔵番で、目付の牧野鋼太郎らが官軍の代表者に御金蔵が空っぽだった理由を問い詰められたとき、様子を脇で聞いていたが、自分はその理由を知っていたという。数年前から金箱を少しずつ外へ運び出していたのだ。
もうひとりの旗本の証言はもっと具体的だった。
「芝山内から本所の御竹蔵まで、重たい木箱を30個以上運んだことがあります。中身は武器といわれていましたが、警護があまりにも厳重だったし、それが金であることをみんな知っていました。時期ははっきりとは覚えていませんが、われわれがまだ幕府が倒れることなど想像もしなかったころです」
また、吉田忠太夫という旗本の手記にも「慶応3年10月、江戸城の外堀龍ノ口から、夜陰に乗じて端艇(ボート)数隻を使い、数十回にわたり重い箱と梱包を本所の御竹蔵に移送した」と書かれている。
芝山内は徳川家の菩提寺である増上寺のことだろう。秘密が漏れる心配はない。また御竹蔵というのは幕府の建築資材置き場で、現在の墨田区横綱1丁目、JR両国駅北側の国技館や江戸東京博物館などが建っている場所にあった。
御用金らしきものの、そこから先の行方までは誰も知らなかったが、御竹蔵が隅田川沿いにあったことを考えれば、舟で上州方面に運ばれた可能性は高いだろうと畠山は考えた。
江戸城開城のとき、御金蔵が空だったのは官軍の記録にも残っているので事実である。
その理由を、幕府にはもう金がなかったからと簡単に片付けてしまうわけにはいかない。なぜなら、大阪城には18万両残っていて榎本武揚が品川まで運んでいるし、甲府にも24万両あったと伝えられる。
官軍は金座・銀座から約20万両の金銀銅貨と地金を接収している。南北町奉行所だけでも数万両あって与力や同心が分配したそうだから、ともかく江戸城内に小判1枚なかったというのは、あまりにも不自然というしかない。
畠山はこの他、官軍に接収される前に金座・銀座から17万5千両が持ち出されて、板橋宿まで運ばれたことを突き止めた。そしてその行方を追うことがライフワークの一つとなった。
筆者が初めて畠山と会ったのは1974年(昭和49年)。最初は天草キリシタンの財宝の話しかしなかったが、交流を重ねるうちに信頼を得て、徳川埋蔵金の調査に力を貸してくれないかと頼まれたのは1977年のことだった。
大先生が狙いを付けたところなら間違いないだろうと、仲間の了解も取らないうちに引き受けた。結果的には筆者の他に4人がこのプロジェクトに加わることになる。
話を切り出されたときには、徳川というから当然赤城山麓だろうと思っていたら全く違った。旧三国街道、現在の国道17号沿いの利根郡新治村(現みなかみ町)にある永井という宿場跡だった。東京方面から向かうと、少し手前に猿ヶ京という温泉地がある。
畠山は赤城山麓の深山双永寺で見つかったという『双永寺秘文』の解読に挑戦、最終的に「さるがけふ十二 黄金一万枚」とフレーズを導き出した。「さるがけふ」は猿ヶ京、「十二」は山の神を祀る十二神社のことだろう。
そう考えて猿ヶ京周辺を調べ回ると、十二神社は十以上もあってなかなか絞りきれない。ところが、思いがけない情報をキャッチした。猿ヶ京の少し手前の相俣にある海円寺という曹洞宗の寺に、幕末近くに馬数十頭で大量の荷物が運びこまれ、数日のうちに消えてしまったというのだ。
さらに詳しく調べると、永井のほとんどが海円寺の檀家であり、集落の地下に謎の横穴があることを突き止めた。
馬で運ばれてきたのは幕府御用金で、その横穴が隠し場所だと、畠山は確信した。
(続く)
八重野充弘(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。