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80年代半ばから90年代初頭にかけて、全日本プロレスでトップの一角を占めたテリー・ゴディ。その素質たるや相当であったに違いなく、これはジャイアント馬場の“偏愛”ぶりからもうかがえる。
「1982年にゴディは、アメリカマットにおいて馬場のPWFヘビー級王座に挑戦していますが、その翌年に初来日となったのは、当然、馬場の推挙があってのことでしょう」(プロレスライター)
その頃のゴディはマイケル・ヘイズ、バディ・ロバーツとのユニット「ファビュラス・フリーバーズ」として活躍していたが、ゴディ単独での招聘であった。
初戦はスタン・ハンセンとタッグを組み、ジャンボ鶴田&天龍源一郎とのメインイベントで、日本初披露となったパワーボムにより天龍からフォールを奪っている。
なお、この時の技の入り方は自ら相手を振り上げるのではなく、ハンセンが天龍を逆さに持ち上げたところを引き受けて、そこから落とすものだった。
「ゴディの売り出しのために勝ち役を与えながらも、天龍のプライドを傷付けないよう、ゴディ単独の技で仕留められたのではなく、あくまでもツープラトン攻撃でやられたことにしたと思われます」(同)
また、実況では“パイルドライバー”と称されており、のちにゴディ自身がパワーボムという技名を披露したことで、その名称が広まることとなった。
さらに、同シリーズでは同じくハンセンのパートナーとして、テリー・ファンク引退試合の相手も務めている(テリーは実兄のドリー・ファンク・ジュニアとのザ・ファンクス)。結果は、テリーのコーナーポスト最上段から飛び込んでの回転エビ固めに敗れたが、巧みなインサイドワークでハンセンをフォローするなど、随所に見せ場をつくっている。
この時のゴディは22歳。14歳の頃から年齢を偽ってリングに上がっていたというが、それでもハンセンや天龍とは一回りほど若かった。にもかかわらず、これだけの大役を任されるレスラーは、なかなかいるものではない。
翌年にはフリーバーズそろっての来日となったが、その後はゴディのみが全日の常連外国人となる。
「同時期に、やはりフリーバーズとして参戦したWWFでは、メンバーそれぞれを単独で売り出そうとしたことに反発し、ゴディは短期で離脱しています」(同)
それでいて全日での単独参戦を受け入れたというからには、相当の配慮がなされたに違いなく、これも馬場がゴディを買っていたことの証しと言えそうだ。
★差し替えられたメインイベント
1992年10月、日本武道館で行われた全日本プロレス創立20周年記念大会でも、ゴディは特別タッグマッチに抜擢されている。馬場&ハンセン&ドリーvsアンドレ・ザ・ジャイアント&ジャンボ鶴田&ゴディという組み合わせに、「ゴディだけ格が落ちる」と見る向きもあろうが、馬場にしてみればここに加えるにふさわしい選手ということだった。
なお、この試合は鶴田がドリーのスピニング・トーホールドを首固めで丸め込んで勝利しており、決してゴディは負け役として選ばれたわけではない。鶴田は肝炎による欠場直前で、馬場、ドリー、アンドレも全盛期をすぎていたことから、ハンセンとゴディで試合を引っ張ることを求められての起用であった。この頃、すでに馬場と鶴田の日本人トップ2人からフォールを奪っているゴディは、馬場の認識においては押しも押されもせぬトップファイターだったのである。
ただ、こうした馬場の高評価ほどにファンからの信頼を得ていたかというと、そこには疑問も残る。
1990年4月に東京ドームで開催されたWWFと全日、新日本プロレスの合同興行「日米レスリングサミット」で、当初にメインイベントとして発表されたのはハルク・ホーガンとゴディのシングル戦であった。しかし、これがまったくと言っていいほどにファンには響かず、チケットの初動はまったくもって芳しいものではなかった。
結局、体調不良の名目でゴディを下げ、代役にハンセンを立てたことでチケットの売れ行きは一気に加速、大会も無事成功に終わったのだが、それにしてもなぜ馬場とファンの間で、ゴディの評価にこれほどの乖離が生じたのか。
「パワーファイターでありながら、実は相当のテクニシャンでもあるゴディ。同業者の馬場はそこを買ったのでしょうが、ファンにしてみれば巧さゆえに、ハンセンのような荒々しさが足りないと感じたのでは…」(同)
やはりプロレスというジャンルは難しく、決して一筋縄ではいかない。
テリー・ゴディ
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PROFILE●1961年4月23日〜2001年7月16日。アメリカ合衆国ミネソタ州出身。
身長195㎝、体重135㎏。得意技/パワーボム、魚雷ラリアット。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)