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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(9)

 婦人は何も言わずに黙って帰って行った。それが花子だったかどうか、そうであったとも、なかったとも言えない。

 もう一つ、徳次の覚えていることがある。小学校に上がる前の年のこと。当時、徳次は義母からマッチ箱を貼(は)る内職をさせられていた。
 マッチは、清水誠が明治9(1876)年に東京・本所柳原町にマッチ工場を創設したのが、日本における本格的製造の始めである。金沢藩士だった清水は文部省留学生として滞在したフランス・パリでマッチ製造技術を学んで帰国し、技術の普及に努めた。明治政府は日本の輸出入の均衡を図るため、マッチを輸出の重要品目とする方針であった。マッチ工場は国内各地につくられた。徳次の住まいは日本のマッチ発祥地にも近かった。小学校入学前の徳次にとって、家計を助けるための内職であったが、小さな指先で国策の一端を担ってもいたのだ。

 春の初めの風の強い日、徳次は貼り終えたマッチ箱を風呂敷一杯に包むと小さい背中に担(かつ)いだ。問屋に届けるのだ。家を出ようとするところへ、入れ違いに見知らぬ若い人が入って来た。若い人は徳次をしばらくじっと見つめていた。徳次が行き過ぎてちょっと振り返ってみると、若い人はまだ徳次を見ていた。何か気になって、問屋から急いで帰り、熊八に今の人のことを聞いてみた。熊八は「別に誰でもない。お前の知らない人だ」と言った。けれども、これは実は長兄の彦太郎だったのだ。徳次の実の父・政吉は花子の病気に感染して、花子より先に明治32(1899)年3月13日、58歳でこの世を去っている。花子も3年後の明治35年9月28日、39歳で他界する。政吉は死期が近づいた頃、病床でしきりに幼くして別れた徳次のことを気にした。生涯、徳次に実家を名乗り出ないことが養子縁組をした際の約束だったが、政吉の気持ちを察した彦太郎が、せめて死に際に一目だけでも徳次に会わせてやろうと、熊八の了解を得にやって来たのだ。

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