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逝去元阪神監督・後藤次男氏が田淵を起用し続けた“クマさん伝説”

 “後藤のクマさん”として親しまれた元阪神監督の後藤次男氏が5月30日、老衰のため死去した。92歳。

 私がクマさんと最後に話したのは5年前。作家の林真理子氏が元阪神の土井垣武氏の奥さんの伝記を書くための協力を講談社から依頼され、クマさんを取材したのが最後だった。
 当時、ガン手術で入院する前日だったが、取材を快く受けてくれた。クマさんは「久しぶりだな。明日、手術なんだよ。1日遅れたら話できなかった」と笑顔で迎えてくれたのである。
 実は、クマさんは法政大学の大先輩。20歳以上も下の世代の私が「クマさん」と呼べたのは、まさに天真爛漫な性格だったから愛称で呼ばせて頂いていた。

 1969年、法政大学野球部で私と同期の田淵幸一は東京六大学通算22本の本塁打記録を引っ提げ阪神に入団。チーム内外の反発を押しのけ1年目から田淵を捕手で起用し、新人王まで取らせたのは、クマさんの采配があってこそである。
 巨人入団を希望していた田淵に対し、エースの村山実、江夏豊らは「なぜ阪神を嫌った田淵を使う。ウチにはヒゲ辻(辻佳紀)、辻ダンプ(辻恭彦)という優秀な捕手がおるやろ」と猛反発したものだ。
 大阪スポーツニッポンで記者をしていた私の耳にも田淵批判は飛び込んできた。まだ新人記者だったので、田淵へのバッシングは聞くに堪えなかった。

 ある時、クマさんは甲子園近くの自宅に私を呼び、こんな話をしてくれた。
 「実はな、私は田淵を常時使うために監督に抜擢されたんや。球団からは『監督生命をかけて田淵を使ってくれ』とな」
 クマさんの予期せぬ言葉を聞き、友人としてうれしかった。どんなにバッシングを受けても使い続ける凄みを感じたものだ。
 今で言えば、日本ハムの栗山英樹監督が「大谷翔平の二刀流を認めて起用している」のと似たようなものか。1人のスターを育てるため、批判される役回りを前提とした監督要請は、クマさんが最初だと私は思う。

 「6人の監督に仕えたが、クマさんとの出会いがなかったら今の私はない」
 田淵幸一はそう語った。
(スポーツジャーナリスト・吉見健明)

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