「背番号3は選手としてのものだ。監督になったからには、過去の栄光の背番号・3番を付けるワケにはいかない。監督として一から出直すのだから」。こう宣言した長嶋さんが背番号90番を選んだのは、まだ小学生だった長男・一茂氏が3にちなんだ数字がいいと言い出したからという。3の倍数の9に監督らしく0をつけて90。父親と息子のほほえましいエピソードとして取り上げられたが、就任1年目は巨人史上初のワースト記録の数々を塗り替える最下位に終わり、苦渋番とか、苦重番とか、いろいろな語呂合わせをされ、マスコミの格好のネタになった。
それでも、2年目に最下位からの奇跡の優勝、3年目にはリーグ連覇して90番は長嶋監督のもう一つの顔になった。が、あの80年の10・21電撃解任劇から3年後に、全く無名の選手に与えられ、長嶋さんの周囲が憤激した後日談もある。「3番と違って、永久欠番にするようなものではないにしろ、長嶋監督を否定するような仕打ちだろう。クビにしただけでなく、長嶋カラーを一掃しようとする、追い打ちをかけるような球団のやり方は許せない」と。
長嶋さんの秘蔵っ子のヤンキース・松井秀喜の背番号55を、原監督の母校・東海大相模高の後輩、ドラフト1位ルーキー・大田泰示にいきなり与えたフロント首脳に対し、松井の周辺から怒りの声が上がったことと、オーバーラップしてくる。「55番というのは、巨人の4番・松井の思い入れのある背番号だ。世界の王が打ったシーズン日本記録の55本塁打を目指せという意味合いがあり、それを目標に松井は巨人の4番に上り詰めた。それをまだ実績のない大田に与えるのは、松井に対し、巨人に返ってくるなという意味か」と。
利用するだけ利用したら、後は知らないという、自分勝手な巨人球団のやることは、今も昔も変わらないということか。「サッカー界がプロのJリーグを旗揚げする。対抗するには、長嶋さんの監督復帰しかない」という読売の企業理論で、93年のシーズンから長嶋監督が巨人復帰した時には背番号33を背負った。説明は不要だろう。長嶋さんの持論からいえば、永久欠番の背番号3を復活させることはできない。が、長嶋監督の巨人復帰となれば、栄光の3番と無縁というワケにはいかないだろう。
その後、99年オフにFAで広島から江藤智が移籍する際に、「広島で江藤君の付けていた背番号33を譲りたい。最大の誠意を示したい」と長嶋監督は言い出し、自らの背番号33を譲り、栄光の3番を復活させている。2000年の宮崎キャンプは、長嶋監督がいつグラウンドコートを脱ぎ、背番号3を披露するのか、ファン最大の関心事になり、大騒動に発展したのは、長嶋伝説の一つになっている。なにしろ日本全国からファンが宮崎に押しかけ、連日、今か今かと長嶋監督の一挙手一投足を注視したのだから、信じられない。WBC日本代表候補選手の宮崎合宿は、イチロー、松坂などそうそうたる面々がいての連日の4万人。それを長嶋さんはひとりでやってのけたのだ。