北崎は先行で穴を出したし、杉田はびわこの鬼と言われるほど、このバンクを得意にしていた。中を割ったり、大外を強襲して地元ファンの期待に応えたものだ。
杉田の同期には佐藤六(東京)横溝誠一(静岡)大橋正明(愛知)河内茂(大阪)川口武雄(徳島)がいた。
関西のマーク陣ではナンバーワンの河内は、佐藤や横溝ほどのマーク強引さはなかったが、その分、追い込み脚は切れるものがあり、時に見せるまくりは強烈だった。
杉田の弟・晋三(12期)石崎興治(12期)はそれなりに普通競輪では名が通っていた。晋三の競りはかなり強引だったし、石崎はむらっ気だったが力はあった。
特別競輪で活躍したのはマーク屋の田中広光(21期)だった。必ず番手に行き、細い体で競り合った。関西のマーク屋ではかなり名が通っていた。性格はきついが練習熱心で、びわこにあった近畿の訓練所では、若手に混じって練習していた。
先行の西尾重一郎(17期)も、地脚を生かした先行まくりで大物を食った。57歳のいまもA級で頑張っている井狩吉雄(35期)は凄い。昭和50にデビューしてから33年間活躍、特別競輪にも参加して地脚を活かした先行からまくり、追い込みと今でもA1を張っているのは立派というほかない。今年1月の松阪で、念願の400勝を達成した。
師匠の田中広光の指導と恵まれた体力を活かした地脚は、選手として長持ちしている原因の一つだが、指導者としても優れている。不言実行型で今でも予選では展開次第で1着を獲る気迫は見事だ。
びわこには大阪から日本選手権を獲った西地清一(期前)が移ってきた。西地の長男・孝介(43期)は58年のいわき平オールスターで決勝に進出している。(優勝は菅田順和)。追い込みの父親とは違い先行まくりで戦ったが、深夜まで奥さんが車誘導をして西地の活躍を助けた。
いまは琵琶湖畔に老人ホームを経営している。「競走で傷ついたひとたちのための施設にしたい」と夢を語っていた。柔道整復師やマッサージの免許を取り、大阪で店を開いていたこともある。競輪界の支援は必ずしも十分ではなかったが、夢を託した施設は素晴らしいものがある。
とは言え「競輪で得たものを競輪選手のために還元する」という崇高な理念は、残念ながら完全に理解されているとは言えないようだ。
話はそれたが、北川智博(61)はスプリンターとして鳴らした。全プロのスプリントでは無敵の存在だった。現在はS2に落ちているが、穴男の魅力に溢れている。