「光秀を倒せばもっと金を与えるぞ!」
そう言って叱咤した。鼻先にニンジンをぶら下げられた馬のように将兵は中国路を激走し、常識はずれのスピードで畿内に到達。戦いの準備ができていなかった光秀を一網打尽にした。天下分け目の一戦における大勝利は、「金の力」によるところが大きい。
そして、天正10年(1582年)、亡き信長の後継を決めるため織田家家臣団が一堂に会した清州会議。信長の三男・信孝を後継に推す柴田勝家と、本能寺の変で横死した嫡男・信忠の遺児を推す秀吉の争いとなったが、筆頭家老の柴田勝家が相手では秀吉の分が悪い。
だが、ここでも金の力…秀吉は織田家中の重臣の正室や側室、侍女たちにまで日頃から金銀や高価な着物などを贈り、「大気者」の評判を得ていた。女たちの秀吉支持は夫である重臣たちの意識さえも動かす。また、秀吉の評判は清州城内に知らぬ者がおらず、規律に厳しい勝家と比べれば城中の好感度は秀吉に大きく傾倒。下々の者たちの醸し出す雰囲気も、会議には影響を及ぼす。
さらに、秀吉は池田恒興など影響力の強い重臣たちに、大幅な加増を約束して味方につけていた。ここ一番で、惜しみなく大盤振る舞いできる思い切りの良さ。それによって多数派を占めた秀吉が、結局は勝利した。
金の力を利用して天下人となった後も、秀吉の経済ヤクザぶりはとどまるところを知らず、大坂城を訪問した諸大名には、金蔵を埋め尽くす金銀を見学させた。誰もが腰を抜かさんばかりに驚いたが、つまり、財力で諸大名を恫喝したのである。
しかし、それでも臣従を拒み続けた関東の北条氏に対しては、20万人の兵を動員して小田原城を包囲。大船団を使って大量の物資を輸送し、包囲戦の最中に贅沢な酒宴を催した。力の差を見せつけられた北条氏側は、戦意喪失して降伏。経済ヤクザは戦わずして、金の力で敵を追い込むこともできるのだ。