表向きにはプロレス大賞の年間最高試合賞(ベストバウト)を獲得したが、実際は新日“冬の時代”の幕開けとなる一戦であった。
2000年1月にPRIDEへの参戦を果たした藤田和之は、当時の格闘技界で“霊長類最強”の呼び名をほしいままにしていたマーク・ケアーに、大番狂わせの判定勝ち。
さらに、ケン・シャムロック(キング・オブ・パンクラシスト、UFCスーパーファイト王者)、ギルバート・アイブル(リングス無差別級王者)と、日本でなじみの深い強豪にも連勝し、一躍、総合格闘技界のトップランナーとなった。
古巣の新日本プロレスとしても、そんなニュースターを放っておくわけにはいかない。'00年の退団から1年4カ月ぶりに新日マットに登場した藤田は、スコット・ノートンを破ってIWGP王座を戴冠した。
「ここで業界やファンが足並みをそろえ、プロレス界の代表として藤田をバックアップしていたならば、もしかしたら後に、『プロレスラーは弱い』との誹りを受けることはなかったかもしれません」(プロレスライター)
しかし、王者の藤田はすんなりと受け入れられなかった。
「例えば、AKB48グループのメンバーが多数出演したドラマ『豆腐プロレス』で、主役以上に好評を博したのが、本来は脇役だったはずの島田晴香(役名・ユンボ島田)でした。ドラマとはいえプロレスに対する島田の真剣さが、視聴者に伝わったんですね。しかし、藤田の場合はその真逆でした」(同)
抜群の身体能力に恵まれながらプロレスになじもうとせず、格闘技の世界に転身したという来歴への不満。プロレスよりも格闘技に目が向いているのではないかとの疑念。
ビッグマッチのみに出場する藤田に比べ、普段の巡業で団体を支え続ける選手たちへの同情。新日退団後に藤田が属した猪木事務所(アントニオ猪木)によるゴリ押しへの反発。
ファンの多くが藤田の背後に、リング上の闘い以外のさまざまを見ていた。
また、他のレスラーたちも藤田に対して複雑な思いを抱いていた。
「新日の先輩レスラーたちからすれば、もともとの藤田はプロレスに適応できなかった落ちこぼれです。いくら格闘技で結果を出したからといって、会社の方針一つでいきなり上に立たれたのでは、面白いわけがない」(スポーツ紙記者)
藤田が王者になるというだけならば、まだ甘んじて受け入れられても、それに挑戦して負けたとなれば、選手としての格付けにも関わる大問題だ。そのため藤田絡みのカードは、どうしても不自然なことになってしまう。
まず、新日に復帰した当初の藤田が挑戦を表明したのは、そのときのIWGP王者・佐々木健介だったが、藤田戦を前にあっさりノートンに王座を明け渡してしまった。
「コアなファンは“藤田に負けたくないから王座から降りた”と見透かしているのに、その試合後のマイクで健介が言い放った『藤田、正直すまんかった』の白々しさといったらもう…。それからしばらくの間、健介は何をやってもしょっぱい“塩介”と嘲られることになりました」(同)
もしも藤田が三銃士らと直接対決して、これを倒していたならば…。トップどころの技量からすれば、不器用といわれる藤田をうまくリードして、王者として認められる存在にまで育てられたかもしれない。しかし、そうしたカードが組まれることはなかった。
ファンの不服は、藤田の試合内容にまで及んだ。王座を奪取したノートン戦では、勝利を告げられた藤田がなおもスリーパーホールドで締め続けていると、落ちて失神したはずのノートンが藤田の膝に手を当てて、「早く技を解いてくれ」とばかりに合図を送ったのだ。
その様子がテレビカメラにしっかりと映されたことで、一部ファンからは“ノートンもみもみ事件”と揶揄されることになった。
そうして迎えた初防衛戦。挑戦者として名乗りを上げたのは、永田裕志だった。
「永田ならば技術面でも対応できるし、同じレスリング出身の藤田を先輩として思いやる気持ちもあったでしょう。のちに格闘技戦に駆り出されたように、上からの頼みを断りきれない人のよさもあります」(同)
そんな永田のリードと対応力もあって、この試合はプロレス大賞にも選ばれる好勝負となったのだが、その最後の最後で藤田がやらかしてしまう。
グラウンド状態の永田に対して、膝を連発で落としてのレフェリーストップ勝ちとなったのだが、その膝がまったく永田に当たっていないのだ。ただただマットに膝をぶつける様子が、またもやテレビにしっかりと映し出されていた。
「これが、例えばスタン・ハンセンなら、当たっていないラリアットでもファンは不満を口にしないが、残念ながら藤田には、まだそこまでの信用がありませんでした」(同)
ファンからの共感を得られないまま“格闘技風プロレス”は続けられ、新日は長い冬の時代を迎えることになった。