政界屈指の権力者の名をほしいままにした田中には、もとより「敵」は少なくなかったが、実は最大のそれは、のちに外務大臣になる最も愛する一人娘の田中真紀子であった。それは、後年の田中の次のような言葉に表われている。
「オレは野党も全学連もコワイと思ったことは一度もない。(将来、総理を目指すときの)ライバル諸君に対しても自信がある。でも、一人だけどうしても手にあまるヤツがいる。娘だ。あの真紀子にだけは、さすがのオレも無条件降伏だ」(自民党幹事長時代)
父娘の対立は、真紀子の思春期からすでに始まっていた。真紀子は田中が代議士になる前、東京・飯田橋に『田中土建工業』を設立した後、間もなく生を受けている。真紀子には1歳上の兄・正法がいたが、5歳で病死している。ために、真紀子は一家の家長、一人娘として田中・はな夫妻の愛情を一身に受けて育ったものだった。田中は真紀子に、良妻賢母型の女性を夢見たのである。
実は、筆者は真紀子に妙な縁がある。早稲田大学商学部時代、第2外国語のスペイン語の単位が足りず、卒業間近に1年生のクラスで“追試”を受けた教室に、米国留学から帰国、入学してきた真紀子がいたのである。さらに、千代田区立富士見小学校で真紀子を担任したS教諭が、筆者が東京・神田の小学校当時の担任だったという具合である。そのS教諭から、真紀子の小学生時代の“横顔”を聞いたことがある。
「性格は角栄さん譲りで感性豊かにして開けっ広げ、成績も優秀だった。一方で、他の生徒と意見の対立があると頑として主張を貫き、決して引き下がることがなかった。角栄さんが代議士初当選して間がなかったが、『お父さんは大好きです』『私も女代議士になりたい』と言っていたのが耳に残っている」
その後、真紀子は私立・日本女子大学付属中学に入学するが、この頃から父娘の対立が顕在化しだした。その底流は、「教育」を巡ってであった。旧田中派の幹部で建設大臣などを歴任した「元帥」の異名があった木村武雄が、田中の女性観をこう語っていたことがある。
「角さんは女にはモテたが、バー、キャバレー遊びは好きじゃなかった。好みの女性は、どちらかというと女らしい、古い“日本型”だったからだ。『受け身、女らしいときが女性は一番美しい』というのが口癖でもあった。『キンキラキンの女性より、旅先から帰ったら黙ってタライで足を洗ってくれるような女性がいい』とも言っていた。はな夫人がその典型的な女性で、何でもハイハイと田中に従っている」
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小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。