『みんなバーに帰る』 パトリック・デウィット/茂木健=訳 東京創元社1700円(本体価格)
10代のころから酒に親しんでいる者は珍しい部類に入る。大概は、いわゆる大人の年齢になってから酒による幸福感を知る。節度ある飲み方を維持できているのが理想的だが、依存性が強くなっていく者も少なくない。年を重ねるに連れ悩みが増え、人生の重要局面から目をそらそうとするのだ。
本書の主人公はハリウッドの場末にあるバーで働いている。正規採用されているわけではなく、雑用もバーテンもする補助スタッフの一人だ。作者のパトリック・デウィットが日本で知られるようになったのは2011年に本国アメリカで発表された長篇が'13年に『シスターズ・ブラザーズ』のタイトルで邦訳紹介されて以降だ。殺し屋兄弟を主人公にしたクライム・ロード・ノヴェルである。
本書の方は'09年に出たデビュー長篇で、この邦訳版は先月1月の刊行である。クライム・ストーリーとは言い難いが、登場する数々の酒飲みたちの行動はかなり犯罪性に満ちている。そもそも飲酒という行為は社会を建設的に動かすまっとうな営み、陽の光を浴びる健康的な生活から逸脱する、背徳の快楽を伴うものであり、不良性、犯罪性とも深いつながりを持っているのである。
この小説は徹頭徹尾、凝った書き方で成り立っている。主人公の〈俺〉〈私〉といった一人称の語りでつづられておらず、〈彼〉のような三人称も使われていない。〈君〉と呼び掛ける二人称のおかげで読者は自身と主人公を同一化できるのだ。本当にバーで働いている気分が生まれる。そして主人公も客たちと同様、酒に依存している。彼が酒飲みの醜態を完全に見下せないのは、仲間意識もあるからなのだ。
酒に限らず何かに依存しなければ人は生きていけない。作者は酒場を描きつつ人間全般の弱さ、マイナス感情をさらけ出している。
(中辻理夫/文芸評論家)
【昇天の1冊】
東京・渋谷区円山町−−都内有数のラブホテル街であり、現在も日が落ちると“どぎつい”ネオンが瞬き、細い路地をさまざまな男女が行き来する。
その円山町の変遷を描いたドキュメンタリーが『迷宮の花街 渋谷円山町』(宝島社/1450円+税)だ。
著者の本橋信宏氏は『〈風俗〉体験ルポ やってみたら、こうだった』(同)や『なぜ人妻はそそるのか?』(メディアファクトリー)等、性風俗に対する先鋭的な視点で知られるノンフィクション作家。本書は『東京最後の異界 鶯谷』に続く“異界シリーズ”第2弾として執筆され、「迷宮」と呼ぶにふさわしい風俗街・円山町の全貌をひもといていく。
江戸時代は火葬場だった場所に明治になって料亭街が形成され始める。風俗の一大拠点・円山町の誕生だ。近隣に代々木練兵場という軍事施設ができたことで、将校たちの社交場として発展した特異な経緯を持つという、意外な事実も知ることができる。
さらに芸者が集い花街となり、戦後に料亭が廃れると、今度は連れ込み宿→ラブホへと経営をシフトさせ、しぶとく生き残る。デリヘル嬢が跋扈する1990年代を迎え、'97年、いまだ未解決の『東電OL殺人事件』が勃発−−。
今もなお、東京西地区に住む人妻たちが不倫の逢瀬に利用するメッカとして、淫靡さと胡散臭さに満ちている。そんな円山町の歴史、人を惹きつける得体の知れないパワーを、そこに生きる人々の生き生きとしたエピソードを交えて伝える秀逸な書籍といえよう。
(小林明/編集プロダクション『ディラナダチ』代表)