そんな状況のなか、もともと賭けごとに厳しく目を向けていた馬政局は、ついに大ナタを振るうことになる。1908(明治41)年10月、折から施行された新刑法に当てはめて、馬券発売を禁止してしまったのだ。関連書物によると、日本レースクラブはこのとき、「競馬界に、爆弾が投ぜられた思いだった」と記している。
この新法に、あわてた15の競馬団体は、損害賠償と「競馬の勝負にかけるのは、賭博に当たらない」と提訴する一方、馬券発売を認める競馬法の制定を政府や議会に請願した。だが、結局、提訴は退けられ、競馬法制定も毎年のように議会で否決されてしまった。
その傍らで政府は競馬そのものは奨励する方針を改めて固める。ただし、かけをしない競馬のための保護推進だ。政府は全国15の競馬団体を改組、合併させ、施設費や旅費、賞金などの補助金を出すようになった。1910(明治43)年から1920(大正9)年までの11年間に政府が出した補助金は40億円近くにものぼった。だが、馬券発売による収益に比べれば、その差は大きく、どの競馬倶楽部も財政難に苦しむことになった。この時期、競馬倶楽部は、改組、合併などを経て11まで減少していた。
もちろん、根岸競馬の日本レース倶楽部も例外ではなかった。馬券禁止前の1908年、春季競馬の入場料・馬券収益が合わせて11万4454円だったのに対し、禁止後の秋季競馬の収益はわずか625円に過ぎなかった。それに代わる馬政局からの春季開催補助金は、1万1000円だった。
※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬