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遠い記憶 根岸競馬場の歴史(5)

 プロ(馬券師)は入会お断り。この是非をめぐり、根岸競馬を主催していた横浜レーシング倶楽部で内紛が勃発したことは前回で記したが、今回もそのすったもんだの続きを紹介していくこととしよう。
 そもそも競馬場は居留民全体に借地契約されていた。それなのに、勝手に一部の居留民の入会を排除するとはけしからん!というのが不満派の主張だった。結局このお家騒動は収拾がつかず、1876(明治9)年10月、ついに不満派は横浜レーシング倶楽部に対抗して、横浜レーシングアソシエーションを結成する。
 それから約2年間、両者は対立したまま、それぞれ主催の競馬を続けるが、借地料問題の行き詰まりもあって、共倒れ。競馬場用地は政府に返還されることで話がつき、1878(明治11)年、2つのクラブは合併し、横浜ジョッキー倶楽部が発足した。

 さらに、2年後の1880(明治13)年、J.J.ケスウィック氏をはじめ居留外国人代表が3人、日本側からは陸軍中将も発起人に加わって、横浜ジョッキー倶楽部は「日本レースクラブ」と改称される。同クラブは日本人にもオープンにされ、会員の中には伊藤博文や大隈重信らそうそうたる面々が名を連ねた。また、JapanではなくNipponと冠されたクラブ名は、その後、日本の代表的な根岸競馬を象徴していく。
 話は冒頭の部分に戻るが、横浜レーシング倶楽部が分離した背景には、とかく英国主導になりがちな居留地に対する不満が、その他の国にあったようだ。その対立感情がここに反映されたらしい。居留地から出ている新聞も見解が対立し、ジャパン・ヘラルドやジャパン・メイルが倶楽部側を、ジャパン・ガゼットがアソシエーション側を支持する論調だった。
 ※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬

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