戦前戦後を通じて“赤バット”で人気を博し、卓越した技術で『打撃の神様』『野球の神様』とも称された。私たちOBにとってはさん然と輝く大先輩で、宝物のような存在だった。
現役時代を終え、ユニホームを脱がれた後も、「監督」「おやじさん」と呼んで、ゴルフや酒宴の席でご一緒させていただくなど、親しくお付き合いさせてもらった。そんな川上監督の下で9年連続日本一を達成する一員として仕事をさせていただいたことを、あらためて誇りに思うと同時に、感謝の気持ちで一杯だ。
訃報を知ったのは、仕事先の名古屋だった。宿泊先のホテルに新聞社や雑誌社の記者からコメントを求められる電話が何本も入った。
東京に戻る新幹線の中で、じっと目を閉じると、川上さんとのいろいろなシーンが頭の中を駆け巡った。いつもなら乗車後、すぐ居眠りにつく。ところが、この日は睡魔が一向に襲うことはなかった。
法政二高時代、甲子園で2度の優勝ピッチャーの実績を買われ、巨人軍から入団を誘われた。そのとき、横浜の実家を訪れたのが川上監督で「一緒にやろう」と言ってもらった。そして両親を前に「勲君は立派なプロ野球選手になります。投手より打者としても成功しますよ」と言ったので、父親もビックリ。脇で聞いていた私も「投手として獲るのに変なこと言う人だ」と思ったことを覚えている。
それが入団した年に、いきなり現実となった。私は開幕第2戦の阪神戦に先発起用されるも、敗戦投手に。それから2カ月後、監督室に呼ばれ「柴田、お前は背も小さいし投手より打者に向いている。オレもそうだが、王も投手から打者にかわった。お前はバッティングがいいし、足も速く肩も強いから」と説得された。
間もなくして、投手から野手へ大転換。最初のポジションは遊撃手。だが、強肩と走力を生かすためと、今度は外野手へと配置換え。センターを主に守った。しかし、それだけでは収まらなかった。
「勲よ、スイッチヒッターをマスターしろ!」にはビックリした。日本の球界にまだスイッチヒッターはいない。どうやってマスターしたらいいのか悩んでいたところ、「ドジャースにいるモーリー・ウィルスみたいな打者になれ」と川上監督に命令された。
どんな選手かも知らないし、戸惑った。それで資料をあさり、いろいろ聞いたりしたところ、バットを短く持って上からゴツンとたたき、打球が大きくバウンドする間に一塁に駆け込む内野安打狙いだった。高校時代、打者としてはホームランも狙えてパンチ力もあると評価されていたのに…。